大野川水系河川整備計画(案)
2/10
 

第2節 治水と利水の歴史

 大野川は、古くから流域の人々に、多大な恩恵をもたらしてきました。しかし、その反面、流域の気象・地形特性により、数多くの水害が発生しました。特に大野川本川と派川乙津川に囲まれた高田地区は輪中を形成し、洪水の常襲地帯でした。江戸時代には、大野川高田地区の堤防の一部を低くした溢流堤を設けることにより、大野川の洪水をあふれさせ一時貯留する“千升マス”、“一斗マス”と呼ばれる空池が築かれ、その周辺には竹林が植えられていました。これは加藤清正によって築かれたと伝えられ、堤防の一部を低くすることにより本川の破堤を防ぐと同時に空池で流勢が弱まり、あふれた水はさらに竹林で減勢されるため、田畑や家屋が浸水しても致命的な被害は防ぐことができたといわれています。

 また、輪中地区住民は、屋敷を石垣で高くし、家の周囲を“クネ”と称する防水林でとり囲み、洪水の流勢をやわらげ、家屋の流出を防いでいました。洪水が去ると、大野川が上流から運んできた肥えた土が堆積し、豊かな土壌で農業を営むことができました。このように高田輪中は洪水を受け入れ、川と共存する文化が形成されていました。今も川と共存してきた証しとして、洪水時の「水見(みずみ)」「水じまい」「尻(しり)ごみ」等の言葉や、昭和18年洪水の破堤による水害の状況が伝承されています。
 現在は、大野川本川流量の一部を乙津川へ分派する分流堰が乙津川の上流端に設けられ、高田輪中は連続した高い堤防で囲まれ、水害の恐れが少なくなったことと、輪中内の市街化による人口増加や宅地開発により、昔からの輪中文化は薄れつつあります。

石垣の上に建てられた人家や蔵
(大分市高田)
高田輪中の人家と石垣
(大分市高田)

 大野川流域の用水開発は、上中流域を広く支配した岡藩により、城原井路を始め緒方井路、音無井路等多くの井路が建設されました。

 一方、下流域は、小藩分立で各地域間の意志疎通を欠いたこと、また河岸段丘等の地形特性より、用水開発は著しく遅れその完成は昭和の戦後まで待たねばなりませんでした。

 一方、大正15年(1926年)、県下に未曾有の大干ばつが襲った際、大野川下流域一帯の竹中・判田・松岡・明治の四村は収穫皆無の状態となり、さらに大在から坂ノ市にかけてのはねつるべ(井戸から水田に水を汲み上げる仕掛け)地帯の被害も甚大でした。この大干ばつが「昭和井路開削事業」の発火点となり、昭和17年に大野川河水統制事業として犬飼の大分県営発電所と共同事業で昭和井路開削国営事業が起工され、昭和32年6月に全域が通水し、大野川下流域の約1,500haをかんがいしています。

 これにより、下流でのはねつるべ等の労苦と、干ばつによる被害は解消されています。

 このように、洪水と干ばつのなかで、大野川は人々のくらしと密接に結びついていました。

 

昭和井路(大野川18/2付近)
川辺ダム(三重町)
図1−2 昭和井路位置図

 

 江戸時代、大野川の舟運は、上流地帯に大部分の領地を持つ岡藩と、中流地帯の三重、野津市などの穀倉地帯を領有する臼杵藩によって開かれました。大野川の最大の特徴は、河口に位置する鶴崎、三佐、家島、乙津などが各藩と瀬戸内海と結ぶ海の玄関口として近世を通じ枢要な役割を担った点です。熊本藩がこの地に着目したのも瀬戸内海と通じる参勤と文物の通路を確保するためでした。

 元和9年(1623年)に大野川河口の三佐(大分市)を領有することになった岡藩は、三佐を瀬戸内海への基地とし、さらに竹田、三佐間の中間基地として犬飼港を寛文2年(1662年)に完成させています。

 一方、犬飼の対岸吐合港、細長港などには、臼杵藩の舟番所が設けられ、犬飼、吐合の両番所を経由して上流の産物が下流へ、下流の産物が上流へと、当時の舟運が如何に大きな役割を果たしていたかがわかります。その後、大正6年の鉄道の開通を境に大野川に白帆をかかげて上下していた帆船は姿を消していきました。

犬飼港跡(犬飼町)
細川家御座船の図
舟曳きの様子

 

 
 
大野川水系河川整備計画(直轄管理区間)についての情報・問い合わせは下記まで。
大野川相談窓口
国土交通省 九州地方整備局
大分河川国道事務所  Tel 097-544-4167
870-0820 大分市西大道1丁目1番71号
大野川出張所  Tel 097-527-2549
870-0261 大分市大字志村字川平218-2