115 境谷(さかいだに) 綾町
綾南川上流の綾町の最西部、小林市須木との境にある。須木と綾町との境の谷の意味。『日向地誌』に「南股村 西ハ須木村ト半ハ山嶺(さんれい)ヲ以テ界シ半ハ山谷ヲ以テ界ス」「南裏雑樹林…字大口境ヶ谷賀多(がた)轆轤木(ろくろぎ)ニワタリ…」とある。須木区の東俣谷・西俣谷・南俣谷・桑俣谷などの「俣」は山と山との間の低地、すなわち「谷」と同じ意味であろう。


116 桜木(さくらぎ) 都城市高城町 
太宰府(だざいふ)から日向花木に平治元年(1295)下向(げこう)してきた花木実遠(さねとお)を先祖とした分族(ぶんぞく)に高木氏のほかに桜木氏があった。『三俣院記』に「桜木永留の勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)は、応永34年(1427)4月16日桜木対馬介(さくらぎつしまのすけ)公頼(きみより)建立、作者山之坊」という書き付けがあったと記している。南北朝争乱後桜木を治めたのが桜木氏であった。古い時代からの地名である。

下向(げこう) いなかへ下ること。
分族(ぶんぞく) 分かれた家。
将軍地蔵を祭った将軍神社



117 佐土瀬(さどせ) 野尻町 
もともとこのあたりは、約2万2千〜2万5千年前に鹿児島の姶良(あいら)カルデラの大噴火によって野尻シラス台地が形成された所で、長い年月の間に現在のような地形となったと考えられている。佐渡(佐土)は、砂土の意味で当て字と考えられるが、砂土は次第に崩壊(ほうかい)し、狭い迫田(さこだ)となり、門地となって佐土瀬門となった。ここにある佐土瀬姓はこの門名(かどめい)を名乗ったものと考えられる。


118 薩摩迫(さつまざこ) 都城市山田町 
薩摩迫は都城島津家発祥の地(はっしょうのち)で、中霧島の古江(ふるえ)にある。島津忠宗(ただむね〜4代領主〜)の6男資忠(すけただ)が、合戦の功により足利尊氏に北郷(ほんごう)300町を与えられ、文和元年(1352)この地にはいった。北郷氏を名乗り都城島津家の祖(そ)となった。山手にあって天然の要害(ようがい)の地であった。文和元年(1352)資忠の子義久が都島(みやこじま)へ都之城(みやこのしろ)を築き、都城(みやこのじょう)と名付けた。薩摩の方を向いた要害の地というので、この名が起こったのかも知れない。

発祥の地(はっしょうのち) 最初の起こりの地。
祖(そ) はじめての人。
天然の要害(ようがい) 険しくて敵を防ぐのに適した地。
薩摩迫館跡
薩摩迫大手口



薩摩迫館跡



119 狭野(さの) 高原町
神武天皇を祭った狭野神社がある。神武天皇は幼名を「狭野尊」(さののみこと〜『日本書紀』)と呼ばれた。この地が狭い野であったからであるという。霧島山麓には、幾筋もの火砕流から形成された段丘が麓(ふもと)に延びているのでそのような地形の間に広がる平地を狭野と呼んだのではないか。
秀吉がおこした朝鮮出兵(16世紀末)で、出陣した島津義弘が帰国後に狭野神社に杉を植えた。樹齢400年以上の狭野杉と呼ばれるみごとな杉の木がある。
狭野神社



120 去川(さるかわ) 宮崎市高岡町
大淀川を宮崎では赤江川(あかえがわ)と呼んでいたが、高岡郷では「左流川(さるかわ)」と呼んでいたとある。また宮崎城主の上井覚兼(うわいかくけん)日記には「佐理川」「さり川」と書かれている。薩摩街道(さつまかいどう)は、ここで大淀川から離れて(去って)山道に入るので、去川となったという説と、他方ここには薩摩藩の関所(せきしょ)が置かれ、大変きびしい取調べがなされたと言われている。その役所から見て、大淀川が左を流れているから左流川(さるかわ)といったともいう。

上井覚兼(うわいかくけん)日記
天正5年(1577)伊東氏にかわって島津氏が天正15年(1587)まで日向を支配した。宮崎城は、上井覚兼が城主であった。城中の生活を詳しく記したのが上井覚兼日記(大日本古記録)である。
去川の関跡



121 山王原(さんのうばる) 三股町
山王原は、もと広い原野だったのでこの名が付けられたといわれている。この地を開拓し、三股町の基礎を築いたのは明治3年(1870)勝岡郷と梶山郷を合わせて下三股郷(しもみまたごう)がつくられた時の地頭(じとう)三島通庸(みしまつうよう)であった。この功績(こうせき)を称(たた)えた「三股開拓之碑」が稲荷神社境内(いなりじんじゃけいだい)にある。山王原地区民によって建てられたものである。

地頭(じとう) 郷を治める責任者。
三股開拓碑



122 三名(さんみょう) 国富町
名(みょう)とは荘園、または領地の意味。日向地方に絶大な権勢を誇っていた宇佐八幡宮の土地などを記録した『宇佐大鏡』によると宇佐収納使にあてがわれた土地は「伊在生(いざお)」、「衾田(ふすまだ)」、「けいたとい松」の三つの名で、「三ヶ名」または「三名」が衾田神社を中心にした地名になったと言われる。伊在生と衾田は国富町北部三名川沿いにある。「とい松」=富松、現在は旧宮王丸村の飛び地として北本庄に大字(あざ)名が残っている。「けいた」の地名は残っていない。
中心の衾田(ふすまだ)神社と奉行所跡(現在は宅地)



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