144 大工町(だいくまち) 宮崎市
一般に大工町は城下町における大工などの建築業者が住む一帯をさすが、宮崎においては考えにくい。元来の大工町は小松川東側で現在の国道10号を挟(はさ)んで松橋町と和知川原町(わちがわらちょう)の間にあった。江戸時代初期には大淀川・小松川の流域も現在とは異なっており、現宮崎河川国道事務所(大工町)付近に千石船の造船所があって、そこで働く船大工たちが住んでいたことに由来するとの説もある。


145 高木原(たかぎばる) 都城市 
大淀川右岸に位置する。戦前までは高木街道に松並木があったが、戦時中に松やに採集のため伐採(ばっさい)された。高木原の地名は、高い所の野原という意味で、大淀川からの利水ができず、原野と畑地が多かった。大正4年(1915)に高木原用水路完成により開墾(かいこん)も進んだ。高木原用水路は、近年生活排水の汚濁(おだく)などにより昭和53年(1978)廃止された後、オ一ツタイヤ工場近くに高木原ポンプ揚水場(ようすいじょう)が新設され、田畑の用水に利用されている。
高木原ポンプ揚水場



146 高崎(たかさき) 都城市高崎町
たかざきとも呼ぶ。都城盆地の北東部に位置する。地名の由来は、『高崎町史』によると、高千穂峰の天孫降臨神話(てんそんこうりんしんわ)に関わりがあるという。天上界の神々が常駐(じょうちゅう)する高天原(たかまがはら)が転訛(てんか)して高原となり、祭事(まつりごと)や居住される皇居(こうきょ)の地を崎と呼ぶことから高崎になったと伝えられる。県内ではとても畜産の盛んな町である。
高崎町全景



147 高崎新田(たかさきしんでん) 都城市高崎町 
町の中心地域は高崎新田と呼ばれる。地域の中央を国道221号が縦断している。江戸期の生活の中心は当時の麓(ふもと)地区であり、この地域は広い湿地帯であったが、その後新しい田畑が広がっていたことから、高崎新田と呼ばれるようになったという。大正2年(1913)旧吉都線高崎新田駅が開業したことにより、駅前の水田地帯にも人家が次ぎ次ぎと建ち並び、発展してきたものである。高崎川流域に高崎小学校が建てられ、周辺は水田が広がっている。
高崎川流域にある松ヵ水流(まつがづる)、牟礼水流(むれづる)の地名も川と関係があるものであろう。
高崎新田の中心地



148 高城(たかじょう) 都城市高城町
『三国名勝図会』には「高城の名は皇都(こうと)の遺稿(いこう)なり」とあり、高城(たき)と呼ぶ地名もある。高城が三俣院高城(みまたいんたかじょう)といわれるようになるのは肝付兼重(きもつきかねしげ)と足利尊氏(あしかがたかうじ)の命をうけた畠山直顕(はたけやまただあき)が戦った南北朝時代からである。当時三俣院高城や高岡の穆佐院高城(むかさいんたかじょう)児湯木城の新納院高城(にいろいんたかじょう)を日向3高城と呼び、その地方の重要な拠点(きょてん〜大事な場所〜)であった。三俣院高城は月山日和城(がっさんひわじょう)ともいわれ、現在は一般に日和城(ひわじょう)と呼ばれている。城跡に現在は郷土資料館が建っている。
高城城跡



149 高洲(たかす) 宮崎市 
大淀川左岸で一ツ葉入江から上流にかけての字(あざ)名であったが、現在の高洲町の町域とは必ずしも一致しない。地名の意味から言えば、高洲は「台地・自然堤防」の意味があり、明治時代初期にはこの地に「高洲松林」があったことが知られている。自然堤防が存在したのか、根固めの松を植えて造った人工の堤防であったのかは不明であるが、周辺よりも土地がやや高くなっているので高洲と呼ばれたものと思われる。


150 高千穂峰(たかちほのみね) 高原町 
『古事記』・『日本書紀』には、アマテラスオオミカミ(天照大御神)が、孫のニニキノミコトを日本列島に天降りさせたという神話が書かれている。ニニキノミコトは、「筑紫の日向の襲(そ)の高千穂の峰」(『日本書紀』)に降臨(こうりん)されたと伝えている。(『古事記』は、「筑紫の日向の高千穂のくじふるだけ」と書く。)神話に語られている「高千穂の峰」は、霧島の高千穂の峰であると考えられてきたので、この名で呼ばれることになった。
韓国岳から新燃岳、高千穂峰をのぞむ



151 高浜(たかはま) 宮崎市高岡町  
浜(はま)というのは、海岸を意味する。昔は上流の「川口」まで海が入り込んでいたと推定されている。事実「赤谷(あかたに)」の宅地造成地で、たくさんの貝の化石が出て、海底にあった水成岩層(すいせいがんそう)であることが分かった。ここは奥地にできた「はま」という、土地の成り立ちから付いた地名と思われる。
高浜地域



赤谷の大淀川河川敷に露出している貝の化石



152 高原(たかはる) 高原町 
南九州では、平坦地になっている高台を「原…ハル」という。西都原(さいとばる)はそのよい例である。霧島山麓に広がる小高く広い平地を、高原と呼んだのであろう。土地の自然の地形から生れた名称と思われる。
一説には、天孫降臨神話の神々の世界である高天原(たかまがはら)にちなんで、高原の地名になったともいう。


153 竹之下(たけのした) 都城市
以前は岳之下とも書いた。城山の崖下(がけした)の意味だと思われるが、時がたつうちに竹之下になった。都島町と西町の間に架かる竹ノ下橋周辺は、江戸時代から宮崎の赤江まで続く唯一の水運の拠点(〜活動の足場〜)であり、荷を運ぶ川船が行き来した。平成13年(2001)「川の駅公園」が川岸に建設され、児童の研修などにも利用されている。
竹ノ下橋(岳下橋)



154 竹原田(たけはらだ、たこんだ、たごんだ) 宮崎市
柏田の西側に接し、堤防を挟(はさ)んで大淀川に面している。北側には竹篠(たけしの)という地名もあり、一帯には竹林が密集している。正式には「タケハラダ」であるが、地元では「タゴンダ」と呼ぶ。原田は湿地・湿田を意味するが、「ゴンダ」と発音することはない。ただ、原田と同義である「権田」が「コンダ・ゴンダ」と発音することに何か関係があるのかも知れない。


155 田島(たじま) 都城市山之口町
田島は山之口町大字(あざ)富吉にある地名で田園が広がる。地名の由来は定かではないが、かくれ念仏堂(ねんぶつどう)と殉難(じゅんなん)の遺跡があり、見学者も多い。広域農道沿いに「かくれ念仏堂の碑」も建てられている。
田島は早くから開けた地域に関係がある地名のようで、佐土原も古くから田島と呼ばれていた。

殉難(じゅんなん) 難を受けて死ぬ。
田島のかくれ念仏洞

かくれ念仏
薩摩藩では慶長2年(1597)から仏教の一つである一向宗・真宗(いっこうしゅう・しんしゅう)が禁止され、信者は拷問(ごうもん)や打ち首など厳しく罰せられた。それでも信者の武士や農民は、洞穴(どうけつ)や林に隠れて、お経を唱えたり指導者の話を聞いて信仰を守り通したといわれる。
史跡として、他に高城の国道10号の有水小学校前から約4キロメートルの田辺(たなべ)にある。約30平方メートルの広さがあり中も見学できる。さらに、三股の蓼池(たでいけ)の国道256号の脇にある念仏堂は、入口約1.5メートル、奥行き約3メートル、高さ約1メートルであるが、昔はもっと大きかったと思われる。

拷問(ごうもん) からだを痛めつける。
山之口町安楽寺に残っている拷問石



156 田尻(たじり) 国富町
戦国時代から本庄川の下流右岸にある地名。本庄川は森永、竹田の長い台地に突き当たり、流れを南東に変えて進み、再び弁天淵の辺りで向きを変え、本庄の鎌田ヶ城の下の断崖に当たって、対岸の田尻と嵐田を襲った。このジグザグコースは何百年も繰り返された。田尻地区は米どころで、田の尻(末尾〜すえのこと〜)は本庄川の広い流域の末端で、木森用水路も綾地区から地区民の努力で元禄14年(1701)に建設されている。
木森用水路



綾町南俣の木森堰 元禄14年(1701)創設



157 田代八重(たしろばえ) 小林市須木 
田代ヶ八重(たしろがばえ)ともいわれていた。田代は未開発の土地、八重は山が幾重(いくえ)にも重なっている所の意味で、田代八重は山の奥の方にある土地のことである。国道265号を北上する急坂を上りつめた所が輝嶺峠(きれいとうげ〜標高800メートル〜)で、綾南川・綾北川の分水嶺(ぶんすいれい)でもある。この下り坂を降りた所が、田代八重と呼ばれていた。現在はダムになっている。


158 橘通(たちばなどおり) 宮崎市
橘橋から北側に延長された道路なので橘通になったとされる。橘橋は明治13年(1880)に福島邦成が私費で架設(かせつ)した際、県に提出した書類に「橋名は橘橋とする」と明記している。だが、その由来については示しておらず、『日本書紀』の「小戸の橘」に由来するといわれる。明治40年(1907)の新聞に「寺町改称橘通何丁目」との記事が散見され、この頃から橘通は通称となり、昭和2年(1927)に正式な町名となった。
橘橋北詰に残っている橘橋の親柱



159 谷頭(たにがしら) 都城市山田町  
野々美谷川の谷の頭(かしら)にあるので谷頭と名付けられた。谷頭の中央部に谷頭駅があり、ここから山田、庄内、志和地、高崎に通ずる道路が走っており、駅前は商店街になっている。谷頭は自然の地形から起こった名前である。
谷頭町並み

しまうつりの碑 都城市山田町  
谷頭駅前の本道を山田方面へ約300メートル行くと十字路の角にこの碑が建っている。安永8年(1779)桜島の大噴火で家や土地を失った33戸の農家が、中霧島地区に17戸、野々美谷地区に16戸と分かれて住むようになった。明治35年(1902)地区民によって建てられた碑である。

石川理紀之助(いしかわりきのすけ)
翁夜学跡地と胸像 都城市山田町 
 
夜学跡地標識は、前田君開渠記念碑の脇に建てられている。前田正名(まえだまさな)がせっかく開田事業をすすめたのに、地区民は無関心だった。そこで前田は秋田県から石川理紀之助(いしかわりきのすけ)を農民指導のため招いた。農民指導者理紀之助一行8人は、明治35年(1902)4月、半年間の約束で谷頭に来た。理紀之助は夜は夜学会、日中は地区内巡回指導、農業についてその技術(わざ)や精神をていねいに教えた。10月谷頭を去る時は涙の別れだったという。それ以後急速に開田事業は進んだ。今もその徳は語りつがれている。
胸像は、平成8年(1996)「しまうつりの碑」の脇に説明板とともに建立されたものであり、今でも住民の尊敬の念は厚いものがある。

前田君開渠記念碑
(開渠=かいきょ。渠は水路のこと)
都城市山田町  
しまうつりの碑の東30メートルの所にある。地方産業の育成に力を尽くした前田正名は、明治32年(1899)関之尾上流から水を取る用水路工事を行い中霧島谷頭野々美谷地区の開田に努めた。その功績を後の世に伝えるため建てた碑である。




160 田之平(たのひら) 宮崎市高岡町 
谷沿いにできた小平地を、平(ひら)と呼ぶことが多い。ここは浦之名川が深い山間部から出てきて、南向きの日当たりのよい平地を作り、広い田んぼが作られている。それでこの一帯を田之平(たのひら)と呼んでいる。
田之平橋



161 田平・平田(たひら・ひらた) 綾町 
綾盆地西南部の綾南川右岸沿いに隣接(りんせつ)する地名。隣接するのは平田が飛び地のためであろうか。田平は大半が傾斜した山地である。平(ひら)は急傾斜地の意味で、田平は田地に面した傾斜地の意味と思われる。草などを刈り込んで肥料にするのに便利であった。一方、平田は田平の数メートル下段(南側)に隣接する平坦な小区域で、今は大半が人家になっている。平田は平坦地にある田地・水田の意味と思われる。平らな水田の意味ではおかしい。


162 タンポリ(たんぽり) 宮崎市 
地元でタンポリ(津屋原沼)と呼ぶ池(入り江)が飛江田にある。一般に水溜(たま)りや溜(ため)池、溝、くぼ地、入り江を、それぞれタンブリ、タンポ、タンボリ、タンボというが、タンポリも同じような意味である。
昭和18年(1943)、日本海軍は赤江(宮崎市)に飛行場を造った。広い水田だった所にグリ石を並べ、そこに浚渫船(しゅんせつせん)で吸い上げた土砂をトロッコで運んで埋め立てたという。その土砂を吸い上げた跡がタンポリである。
タンポリ



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