53. 内の丸(うちのまる)川

宮崎市糸原から流れ大淀川に合流する延長2.2kmの1次支川。近くに城ヶ峰や倉岡城跡がある。内の丸という地名は、城と関係のありそうな名称であるが、よく分からない。



 54. 長溝(ながみぞ)川

宮崎市糸原から流れ大淀川に合流する延長0.7kmの2次支川。長溝は長い水路のことである。



 55. 天神(てんじん)川

大淀川の支流。川の名称は流域の天神領(てんじんりょう)の地名による。明治初期は真田溝とよばれ、源流は真田池、冨吉の水田域を北に流れ納島口で大淀川に合流する。延長2kmの1次支川。
明治初期、天神川中流の中山寺に天神石橋とよばれた橋が架かっていた。高岡往還の重要な橋で、石橋の長さ約5m幅約1.5mであった。また、同川下流に弁天ノ石橋とよばれた橋が架かっていた。長さ約5m幅約1.5mであったが、現在、両橋の所在は確認できない。


 
 高岡街道の石橋 -----------------------------------------------------------

 旧名・天神石橋 富吉共立病院脇
天神川の中流、○に架かる。明治初期は天神石橋とよばれ、高岡住還の重要な橋であった。石橋の長さおよそ5m幅約1.5mであった。
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 旧名・弁天ノ石橋石橋
天神川の下流、柏原から富吉へ到る道に架かる。明治初期は弁天ノ石橋とよばれ、長さおよそ5m幅約1.5mであった。現在は橋名の表示もない小さな橋である。
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 56. 六田(むつだ)川

大淀川の支流。川の名称は中流域の地名の六田による。明治初期は黒田溝とよばれた。
黒田池を源流とし、北に流れ納島口で大淀川に合流する。延長1.3kmの1次支川。六田のいわれは不明。



 57. 江(え)川

高岡町上倉の古屋敷から流れ、大淀川に合流する延長4.5kmの1次支川。溝・小川の意味から付いた名ではなかろうか。合併前は旧高岡町と宮崎市との境界であった。この川は、大雨が降るとはん濫し大きな水害をもたらしていた。昭和63〜64年にかけて水門の改築工事が行われ、排水能力が増大して水害の被害が減少した。


 新山下(しんやました)橋

『日向地誌』に「山下溝は山下池より起こり東北に流れ、津留に至って田に入る」とある。その地名から付いたのであろう。国道10号の拡幅工事により新山下橋になった。

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 上村(かみむら)橋

上冨吉に上村と呼ぶ集落がある。その集落名から付けられたのであろう。地区を分けるときに川の上流から下流に向かって上村・中村・下村と呼んだ。昭和49年(1974)3月竣工している。

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 四升田(ししょうでん)橋

小字名の四升田をとって付けられた名である。四升田は耕作地の単位面積あたりの収穫量が少ないことから付いたと考えられるが、定かでない。昭和49年(1974)3月竣工している。

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 樋脇(ひわき)橋

ここの小字名をとって付けられた。小川の周辺にできた地域という意味で付いた名であろう。この橋は、清武方面へ通ずる県道・宮崎市大塚台方面に通じる市道が整備されて交通量が増え、平成5年3月に改修竣工した。

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 58. 瓜田(うりた)川

この川は周りの山地の多くの谷川が合流して本流となり、大淀川に合流する延長5.0kmの1次支川。小山田集落の中心を流れ、両側に水田が広がっている。昔上流に大きな淵ができ、それを埋めたてて田んぼを開いたことから、ウメタ川?ウリタ川と呼ぶようになったと伝えられている。この川は、初夏には蛍が乱舞(らんぶ)する清流として知られている。上流に瓜田川治水ダムが設けられて、干ばつ・水害の被害が少なくなったという。


 学頭(がくとう)橋

小字名の学頭から付いた名である。鹿児島藩の土地制度に「門割制度」(かどわりせいど)がある。この地域に学頭門(がくとうかど)が置かれ、名頭(みょうず)に学頭家が代々当たったという記録がある。学頭姓の人が現存している。
「門割制度」〜江戸時代の鹿児島藩内で行われた土地制度である。門とは普通4〜5家部(かぶ)で組織された農民集団で、税を集めたり・労働にかりだされたりする単位のことである。「門」のカシラを名頭(みょうず)とよんだ。

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 番所(ばんどころ)橋

この近くに鹿児島藩が穆佐(むかさ)関所を設けていた。番所のあった所の橋なので付いた名である。関所でも去川の関所は取締りが大変厳しいことで知られているが、穆佐関所の取り締まりはあまり厳しくはなかったといわれている。『日向地誌』に「検察は厳しからず、往来の行旅(こうりょ)誰何(すいか)するところなし」とある。

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 前原(まえばる)橋

小字名の前原から付けられた名である。前原の地名のいわれは、川沿いに開けた低地の意味から付いたのではないだろうか。瓜田川の両側に広大な平地が広がっている。

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 59. 麓(ふもと)川

宮崎市小山田上新城から流れ、大淀川に合流する延長1.0kmの2次支川。麓地区を流れる川から付いた。麓地区の由来は、穆佐城(むかさじょう)の麓(ふもと)にあることから麓と呼ばれるようになった。普段は水量も少なく川幅もせまいが、大雨になるとはん濫し、大きな被害を与えている。そのため瓜田川に注ぐ川口で改修工事が進められている。


 下門(げもん)橋

穆佐小学校正門前の長さ5m足らずの短い橋である。現在麓川の河川工事にあわせて新しい橋が建設中である。橋の名前の由来は定かではないが、穆佐城のふもとにあるので、穆佐城と関連があるのではないかと思われる。

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 60. 飯田(いいだ)川

宮崎市飯田から大淀川に合流する延長3.0kmの1次支川。この川の両側には広大な農地が開けている。昔から中央地区の米どころとして知られている。良質の米(飯(めし))がとれることからイイダと呼ばれ、その地区を流れている川なので「いいだがわ」とよんだ。


 新坂下(しんさかした)橋

坂ノ下地区の名から付いた。高岡の中心地から東500m足らずの地域に架かる橋である。昔は高岡トンネルの通っている山を金比羅様と呼んでいた。その麓に広がる地域からサカシタと付いたと思われる。

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 井上(いのうえ)橋

高岡郵便局周辺の井上地区の名から付けられた。地元の人の話では、飯田川はもともと現在の井上川だったという。水の豊かな地区ということからイノウエの地名が生まれたのであろう。

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 柴手(しばて)橋

市営芝手住宅のある地区の名をとって付けられたと思われるが、橋に付いている漢字は「柴」の字である。この地域は天ヶ城の城下町として栄え、昔は多くの武家屋敷・武家門や土蔵倉があったといわれることから、シバテの地名は天ヶ城と関係が深いと考えられる。明確ないわれはわからない。

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 中尾(なかお)橋

中尾地区の名から付けられた。周囲が山に囲まれてはいるが平地部は広い。「ナカオ」は、ここの地形から付いたものと考えられる。

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 61. 尾谷(おたに)川

高岡町内山の田ノ神橋から流れ大淀川に合流する延長1.0kmの1次支川。合流する付近が尾谷という集落である。この地名が付いた川の名称になっている。尾谷の由来ははっきりしないが、尾はオで、小さい意の「オ」で、小さな谷を意味していると思われる。



 62. 内山(うちやま)川

綾町南俣二反野から流れ大淀川に合流する延長8.8kmの1次支川。内山地域を流れる川ということで内山川と呼んでいる。山に囲まれた内にある地域から付いたのであろう。


 狩野(かりの)橋

狩野地区の名から付いた。ここは昭和初期までは交通の便が悪かったが、発電所建設で道路・橋が整備され急激に開発が進んだといわれている。県道の北側の伊勢原台地(いせはるだいち)には果樹を中心とした施設の畑が広がっている。昔はこの辺一帯が格好の狩猟場であったと思われる。そこからカリノの地名が付いたものと思われる。

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 内山(うちやま)橋

国道268号と県道高岡綾線の交差点近くの内山川に架かる橋なのでこの名が付いたと思われる。

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 63. 原田(はらだ)川

高岡町五町・宮ノ前から流れ内山川に合流する延長1.5kmの2次支川。川沿いに原田という集落がある。この地名から生じた名称と思われる。地名の由来は定かではないが、昔は高台の開けたところを「原(はる)」と呼んだ。そこに多くの田んぼがあったことから「原田」と呼ばれるようになったと地区の人々は言っている。



 64. 板ヶ八重(いたがやえ)川

高岡町飯田吐合から内山川に合流する延長0.7kmの2次支川。昔は交通の便が悪く、「便りするよりいたがはえ」(便りするより行ったほうが早いの意)と語られていた。板ヶ八重の地区名もここから付いたのではないかという。飯田川の支流である。おもしろいいわれである。


 新田(しんでん)橋

新しく開かれた田畑や屋敷のあるところをシンデンと呼ぶ。江戸時代に新田検地条目(しんでんけんちじょうもく)がだされて、いっそう田畑が新しく開発されるようになった。ここがいつごろから開かれたのは定かでない。

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 65. 田中(たなか)川

高岡町五町・須の谷から流れ内山川に合流する延長2.5kmの2次支川。内山川との合流部付近に田中という集落がある。川の名はこの地名から付いたと思われる。
地名の由来は、日向の有力な刀工師田中国広が住んでいたことから「田中」と呼ばれるようになったといわれている。田中国広については、綾町が有名だが、元来は田中に住んでいて、後に綾へ移り住んだと伝えられている。田中国広は豊臣秀吉の九州征伐のとき、鋭い矢じりに国広の銘があったので秀吉に召しだされ、京都へ連れて行かれたと伝えられている。信濃守藤原国広と称し、名刀を残している。



 66. 浦之名(うらのみょう)川

小林市須木の奈佐木峠あたりを源として、高岡町川口で大淀川に注ぐ延長25.6kmの1次支川。上流域は自然豊かな照葉樹林・渓谷美にすぐれ、渓流釣りでも知られている。浦之名の名前の由来は、高岡郷が設けられる以前は、野尻郷に属していた。野尻から見てこの地域がウラの川の流域であるという意味で付いたのではないか。ほかにいくつか考えられるが定かでない。


 川口(かわぐち)橋

地名から付いた名である。ここは浦之名川が本流の大淀川に流れ込むところから川口の地名が付いた。以前、国道268号が浦之名川沿いに通っていた頃は交通の要衝(ようしょう)で賑わったところである。

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 深水(ふかみず)橋

地区名から付いた橋である。地区の名前のいわれは定かでないが、周囲を山に囲まれ、浦之名川に沿って集落や耕地が開け、水量豊かな地域という意味から、フカミズと呼ばれるようになったのではないだろうか。国道268号から深水橋を通って子宝観音で親しまれている岩溝観音(いわみぞかんのん)に行ける。

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 田之平(たのひら)橋

小字名の田之平から付いた名である。集落の中心部を浦之名川が流れ、両側に水田が広がっている。地区の名はその状態から付いたのではないだろうか。国道268号線の浦之名川に架かる橋である。

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 67. 古宮田(ふるみやた)川 [門寺谷(もんじだに)]

高岡町浦之名・古宮田から流れ浦之名川に合流する延長0.5kmの2次支川。古宮田という集落の名称から生じた地名である。地区の人々は「門寺谷(もんじだに)」と呼んでいる。門寺谷の由来は、大きな榎木のところに祠(ほこら)があり、地区ではそれを門寺様とあがめ、祀っていた。この地の高台に本永寺址がある。その寺への参詣口にあたるので門寺と呼ぶようになったと伝えられている。



 68. 左ヶ谷(ひだりがたに)川

高岡町浦之名・左ヶ谷から流れ、浦之名川に合流する延長2.0kmの2次支川。川の名のいわれはよく分からない。左という位置をあらわす文字が使われているので、どこかをもとにして、左といったのであろう。
地区の人は、浦之名川の左岸にある谷ということから「ひだりがたに」と呼んでいる。



 69. 相ヶ谷(あいがたに)川

高岡町浦之名・相ヶ谷から流れ浦之名川に合流する延長1.0kmの2次支川。相ヶ谷の地名が川の名となっている。
浦之名川に合流する手前に、小さな谷が3〜4ある。それらが相合っている所から「アイガタニ」と呼ばれるようになったと地区の人々は言っている。



 70. 永谷(ながたに)川

高岡町浦之名・長谷から流れ浦之名川に合流する延長1.5kmの2次支川。合流地点の田之平付近から奥に向かって長い谷が入る。この地形から名前が付いたと思われる。
地区名は「長谷(ながたに)」と表記するが、ここを流れる川の名は「永谷川」と付いている。地区の古老によると、この川は隣の野尻町境からあまり蛇行のないまっすぐな谷で、その長くのびた谷の地形から「ナガタニ」と呼ぶようになったという。



 71. 前坂谷(まえさかたに)川

綾町大字南俣の陣ノ尾から流れ浦之名川に合流する延長0.6kmの2次支川。倉輪集落を通る町道355号倉輪線の前坂谷川に第1前坂橋(長さ約3.7m、幅約4.7m)・第2前坂橋(長さ約7m、幅約4m)が架かっている。川名は多分「前坂の谷を流れる川」の意味であろう。前坂は「集落の前にある坂」の意味と思われる。
地元の人は、綾・高岡・須木・野尻の境を流れているので「さかい川」と呼んでいる。



 72. 境(さかい)川

山之口町から流れ、大淀川に合流する延長24.8kmの1次支川。山之口町を源流とする川で、文字通り高岡・山之口町の境界になる川である。山之口町の仲田(ちゅうだ)から高岡町山下に至る6キロメ−トル間の渓谷は、春は新緑・夏はキャンプ、秋は紅葉に彩られ、川の清流には鮎がおどる。やな川の別名でよばれるのは、川魚を取るための仕掛け「ヤナ」が多く設けられたからである。



 73. 野崎(のざき)川

田野町から流れ境川に合流する延長4.0kmの2次支川。川の中流域に野崎という集落がある。川の名もその地名がついている。地名の由来は定かではない。傾斜の緩やかな山の端にある地形から呼ぶようになったのだろうか。



 74. 秋社(あきしゃ)川

野尻町紙屋から大淀川に合流する延長7.5kmの1次支川。大淀川に直接合流している町内でただ一つの川である。中流には数個の滝があって、深い谷間を流れつつ、紙屋地区内の全ての河川を集めている。秋社という集落名から付いた名称。国道が今のバイパスに代えられるまでの旧道で、内山村への辻には秋社橋が架けられ、すぐ上に漆野城(出城)がある。要所の名が付けられたものである。


 紙屋(かみや)大橋

秋社川に架かる大橋である。紙屋の名は、元は神谷(こうや)氏から起こり、豊後国(ぶんごのくに)の流れを汲(く)む緒方氏が移住し、紙屋と号したので紙屋となった。 曲がりくねった未舗装の旧道は、時間と安全を守るため漆野地区を抜ける道路に代わり、このバイパスが直線に近くなった。合わせて紙屋小学校から見下ろされるようになった。紙屋新町と下漆野地区に通じる谷をまたいで建設された。この橋のおかげで、小林と宮崎間が大きく短縮され、便利になった。さらに側道橋が架けられている。
見落とされがちだが紙屋大橋と連なる小さな橋黒谷川に架かる「石切橋」がある。この橋下の川に降りるのに急勾配(きゅうこうばい)の坂で苦労があった。

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 秋社(あきしゃ)橋

旧道の中で内山村との交差点(秋社集落)にあり、旧国鉄(省営)バス停留所があった。向かいの山は漆野城(切寄)があり、紙屋城の守りに欠かせない重要な位置にある。自動車の上り・下りの便が、生活の便利を生み、効果をあげた橋である。地名が橋の名になっている。

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 立神(たてがみ)橋

紙屋中心部から都城・四家に通じる道路に架かり、地区の集落名が橋の名前となっている。

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 75. 神谷(かみたに)川

野尻町八久保から秋社川に合流する延長3.7kmの2次支川。秋社川の支流で、内山へぬける山越えの麓に水源を持っており、この川の流域に豊富な恵みを与えている川である。神の恵みの大きいことを願って名付けられた名称である。



 76. 穴水(あなみず)川

高城町有水から流れ大淀川に合流する延長9.5kmの1次支川。穴水のいわれは不明である。