11. 江田(えだ)川

宮崎市山崎町から新別府川に合流する延長4.8kmの2次支川。現在の宮崎市阿波岐原町はおおまかには平安期に誕生した江田郷(行政区画の一つ)に相当し、この川がこの地を貫流していることに由来する。
『日向地誌』では、新切溝(山崎村)、前溝(江田村)、沖の溝(新別府村)と記されている。江田神社(宮の下橋参照)付近を江田と考えがちだが、江が海や川、田が田圃(たんぼ)、湿地帯を意味することから、元来はシーガイア付近の第UとV砂列間(松下橋参照)の低地帯から誕生した地名と思われる。


 船戸(ふなど)橋

この橋のある船戸という小字に由来する。船戸には渡し場の意があるが、戸は門・出入り口という意があり、現在よりも海水位が高い時代にはこの地から船が日向灘に出港していたのかも知れない。また隣接する小字名は江口であり、これらの地名が出来た頃にはこのあたりが日向灘(=江)への出入り口であったと考えられる。一ツ葉稲荷神社に通ずる橋であり、通称稲荷橋とも呼ばれる。

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 坊の下(ぼうのした)3号橋

この橋のある小字・坊の下に由来する。「ボー」は坊・房・宝などの文字が当てられ、「坊」は堂宇を意味することもあるが、この付近にはさしたる堂宇(大きな建物)はない。「ボー」には小平地の意味があり、坊の下は小平地の下という意にもなる。この地はシーガイア付近の第U砂列(松下橋参照)の東南麓(ふもと)、つまり同砂列上の小平地の下に位置しており、坂元、麓、城元(坂元橋参照)等と同じ意味である。

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 松下(まつした)橋

この橋のある松下という小字に由来する。シーガイア付近の内陸側から、T:波島町〜檍中学校、U:江田神社〜山崎街道、V:シーガイア前道路、W:一ツ葉有料道路に南北に長い四つの砂列(砂丘)があり、宮崎市街近郊において珍しく起伏に富む一帯である。この第V砂列で松林が顕著になる場所の西側の低地帯が松下である。

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 山崎(やまざき)1号橋

この橋が宮崎市山崎町にあることに由来する。山崎は旧村名であり、現在のシーガイア一帯に及ぶ地名である。シーガイア付近の第T・U・V砂列(松下橋参照)の丘陵地であり、市民の森公園の東端にある周辺で最も高い標高29.9m地点、つまり「山」の前(=崎)の土地であることから山崎と呼ばれたと思われる。

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 宮下(みやのした)3号橋

この橋のある宮下という小字に由来する。宮は神社の意味であり、神社は江田神社を指し、この地はまさに同神社の東下にあたる。江田神社のある地は産母(ヤボ)という小字で、『古事記』・『日本書紀』に記されたイザナキ・イザナミの神話を彷彿(ほうふつ)させる。一般には「ヤボ」は一般には「ヤブ」と同じで藪の意であり、知恵者が産母の好字を用いたのかも知れない

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 12. 西田(にしだ)川

この川が宮崎市大島町の小字である西田の西端に沿って流れていることに由来する。新別府川に合流する延長1.6kmの2次支川。この地が旧大島村の西端にある田圃(たんぼ)故に、西田と呼ばれるようになったと思われる。『日向地誌』には「西田川は花ヶ島町より来り本(大島)村に入り樋ノ口で前川(現・新別府川)と合う長さ5町20間(約580m)」と記され、江戸期にはすでに西田川と呼ばれていたと思われる。


 新天神(しんてんじん)橋

この橋の周辺に天神前という小字があり、その北側に小字・本村があり、そこに菅原道真を祭神とする大島神社があることに由来する。天神はもともと徳の高い神を指すが、多くは菅原道真を意味する。天満は菅原道真を祀る神社を意味する。何故同神社に菅原道真が祀られているかは不明であるが、すでに文禄4年(1561)の棟札には「上棟一宇天神再興」の文字が記されている。

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 東大宮(ひがしおおみや)橋

この橋は宮崎市東大宮ではなく、同大島町にあり、橋名は宮崎市立東大宮小学校正門に向かう道路であることに由来すると思われる。東大宮は昭和57年(1982)に誕生した行政区画で、大宮は明治22年(1889)の市町村制実施により、下北方村、大島村、花ヶ島町、村角村、南方村、池内村が合併して誕生した大宮村に由来する。明治23年(1890)の『郡行政』には「大宮村の名を冠するは下北方村に宮崎宮(現宮崎神宮)の鎮座ありてその名を著名なるをもってなり」と記されている。

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 入道(にゅうどう)橋

この橋が宮崎市大島町の入道という小字に由来する。入道は出家した人を意味し、他の文字が好字として転じたと思われる。「どう」は川の合流点という意があり、この地で北側から1本、西側から2本の溝が合流して西田川を成している。この地の西側は南赤江町という小字であり、この赤を赤色と考えると、「にゅう(丹生)」の赤土の意と一致する。赤土の川の合流点ということから「にゅうどう」という地名ができ、さらに入道に転じたとも考えられる。

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 花ヶ島(はながしま)橋

平成10年の宮崎北バイパスの開通に伴い、同道路が新別府川を跨(また)ぐこの橋が、花ヶ島橋と名付けられた(同橋参照)。国道10号が西田川の支流を跨ぐ橋はそれ以前から花ヶ島橋という。花ヶ島町の中心街にあることに由来すると思われる。この橋の西側に赤江水徳神社があり、この支流が用水路として重要であったことが理解できる。

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 13. 鶴田(つるた)川

大淀川の支流で0.3kmの1次支川。鶴田川が流れる水流田(つるた)の地名から付いた川の名称、「つる」という音から鶴に替えたと思われる。水流は川が湾曲した所または川の近くの土地に多く付けられる地名で、大淀川下流右岸には、上水流、中水流、下水流など水流の地名がおよそ15ヶ所あるが、いずれも同じような地形から付けられた地名である。
鶴田川はもともと恒久村に流れていた小川を、江戸時代に堀川として改修し、商人町として繁栄していた城ヶ崎の湊として活用されていた。鵜戸街道が中村町から城ヶ崎町へ通じ、多くの人や物の流通があったが、この街道が鶴田川と交わる所に石造の芳屋橋(『日向地誌』では吉屋橋)が昭和30年代まで架かっていた。橋の脇に芳屋という茶屋があったことが橋の名称となったと地元では伝えている。この橋は恒久小学校正門の少し北にあったが、現在橋は道路、川は暗渠になり見ることはできない。
江戸時代、城ヶ崎町に鶴田川以外にもう一つ堀川があり、古川と称していた。古川と鶴田川は八坂神社(古くは祇園神社)近くで合流、大淀川と接する所を共有していたという。古川は城ヶ崎の東を南下、塩飽(しあく)町で東流し八重川と合流していた。
城ヶ崎、恒久の東に古川という小字地名が、細長く「し」の文字状にあるが、城ヶ崎の堀川である古川は、地名として残ったとも考えられる。なお、塩飽町と古川が大淀川に接する辺りに勘場(かんば)と呼ばれる地名があった。現在古川は宅地や公園、耕地になっていて痕跡はまったく残っていない。
「勘場」〜舟の発着場、荷の積み降ろしと精算(勘定)が行われた所である。


 古川(ふるかわ)橋

鶴田川に架かる。橋の名称は古川という地名による。江戸時代、商業で栄えた城ヶ崎の東に古川という小字が細長くある。ここに大淀川から堀川が引かれ、城ヶ崎の大商人らはこの堀川を使って、物資の搬入、搬出をしていたという。鶴田川も城ヶ崎の堀川で、古川は祇園社(八坂神社)の近くで鶴田川と合流し、大淀川に出入りする堀川口は共有していたと伝えている。古川の地名は、堀川であった古川から付いた地名とも考えられる。

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 14. 小松(こまつ)川

宮崎市霧島町から流れ、大淀川に合流する延長3.5kmの1次支川。『日向地誌』には山下溝(下北方村)、津留溝(上別府村)と記されており、統一された呼称はなく、「溝」という呼称から、水の流れは乏しかったと思われる。戦後には松橋川とも呼ばれたともされ、住民は地元の地名を目の前の川の名としていたようである。いつから小松川と呼ばれるようになったのかは明らかでないが、宮崎市は昭和35年(1960)9月から「小松下水路(注:小松川の事)」の改修を始め、昭和37年(1962)の地図には小松川と小松橋(同橋参照)が記載されている。小松川に沿った土地には、松林があったので、小松の地名が残ったと思われる。


 小戸(おど)橋

県道宮崎綾線から小戸神社に向かう道路が、小松川を跨(また)ぐところにかかる橋であることに由来する(小戸之橋参照)。昭和2年(1927)に始まった大淀川改修工事(=築堤)により、中州であった鶴島が土地となり、橘通改修工事(=拡張・舗装)により移転を余儀なくされた小戸神社が昭和9年(1934)に同地に遷座(せんざ)し現在に至っている。

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 小松(こまつ)橋

この橋は小戸橋のすぐ上流に位置し、昭和35年(1960)に開始された「小松下水路」(小松川参照)改修工事によって誕生した。小松という小字が周辺にあったのかどうかは不明であるが、この付近を宮崎市下水道小松排水区と呼び、他の下水道地区も周辺の地域名が冠していることから、小松という小字が橋名の由来と思われる。

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 祇園(ぎおん)橋

この橋は小松川が県道宮崎綾線と交差する場所にあたり、祗園橋と記した地図もあるが、橋にはその呼称は記されていない。この橋が旧祇園町内にあったために祇園橋の呼称が生まれたのかも知れない。南東の欄干の根元部分には「すいじんはし」のプレートが埋められている。この橋のすぐ東側のビル前に水神様と石橋供養碑があり、かつて綾街道が小松川(山下溝)を跨(また)ぐこの地は交通の難所であったことを思わせる。

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 霧島(きりしま)橋

現在この橋は霧島二丁目と同三丁目の間に位置するが、昭和45年(1970)に架設された際に小松川が旧・祇園町と旧・霧島町の境界であったことに由来する。欄干の根元部分に「霧島橋」のプレートが埋められているが、その前に立つ交通標識が橋名を隠している。小松川は以前この地より東側に凸のカーブを描いていたが、戦後の宮崎市北部土地区画整理事業により南北に直線の川に流れをかえた。

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 15. 小松川放水路(こまつがわほうすいろ)

祇園1〜2丁目を流れる延長0.2kmの1次支川。小松川は低地を流れているため、洪水のたびにはん濫していた。この放水路は上流からの水を大淀川に放出する役目を持つ。



 16. 青柳(あおやぎ)川

大淀川の支川。明治初期は大坪溝とよばれ大坪池を源流とし、水流(つる)で大淀川に合流した。延長1.9kmの1次支川。支流に大平溝、溝田溝がある。青柳川と水流川は水流で合流し、大淀川に注ぐ。川の名称青柳のいわれは不明。


 青柳(あおやぎ)橋
青柳川下流、福島町西端県道17号に架かる。明治初期、ここに下ノ町石橋(したのまちいしばし)とよばれる長さ約9mの橋が架かっていた。ここには高岡住還が通り、宮崎と高岡を往来する人々が多かったと思われ、また、壱本橋(いっぽんばし)という地名があることから、古くから橋が架かっていたことが分かる。現在、暗渠になっており確認できない。
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 17. 水流(つる)川

川の名称は下流域の地名による。明治初期には大迫溝とよばれ、大塚大迫池を源流とし、水流で大淀川に合流する。延長1.3kmの1次支川。
水流とは川が湾曲した所または川の近くの土地に多く付けられる地名である。南に向かって流れてきた大淀川が高松橋辺りから大きく曲がり東に流れる、そのカーブした右岸に水流(大塚)がある。大淀川下流右岸には、有田に上水流、中水流、下水流、田吉に水流田、下水流田、下鶴などはじめ水流(つる)の地名がおよそ15ヶ所あるがいずれも同じような地形から付けられた地名である。


 水流(つる)橋

水流川下流、県道南俣南崎線に架かる。橋の名称は川の名、橋が架かっている地名による。水流とは川が湾曲した所または川の近くの土地に多く付けられる地名である。

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 黒(くろ)橋

水流川下流、県道17号に架かる。明治初期は楠橋とよばれ、長さ約3.6m、幅約1.8mであった。古くは宮崎から高岡へ向かう高岡住還が通り、人や物資の往来が多かったと思われる。橋の名称黒橋は楠橋が変化したのかもしれない。

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 18. 大谷(おおたに)川

宮崎市細江の大谷池を源流とする。川の名称は源流部の大谷池にちなむ。明治初期までは流域の各地で呼び名が異なっていた。上流部の細江では大谷溝、長嶺では風呂屋溝、中流部の浮田では八阪溝、小松では油出溝、大塚では無量寺溝といい、大塚の八ヶ久保 (河川改修前は六ツ合が合流点であった)で大淀川に合流する延長12kmの1次支川である。大谷川には支川として岩下川、金竹川、宮之下川がある。


 檜(ひのき)橋

大谷川の中流、上小松と柏原や跡江、有田へ通じる道路に架かり、昭和5年(1930)、地元有志によって架設された。近くに建つ架橋記念碑によると、無田ノ上、柏原その他の人々が多額の金を寄付し、それに対し生目村が300円を補助し、跡江地区が50円、柏原地区が50円、個人で10円などを出資している。檜の名称の由来は不明。

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 油手(あぶらで)橋
大谷川下流小松台団地の北に架かる。明治初期は油手土橋といい長さ約22m、幅約4mであった。橋の名称は大谷川下流を油手溝と呼んでいたことによる。油手橋の下流に若宮橋が架かっているが、その近くに「右いきめ、左なかむら、道」と刻んだ道標がある。これはもともと油手橋のたもとにあったもので、油手橋を通る道は生目神社への脇住還であった。柏田から恋ヶ迫を経由して中村町へ行くのは油手橋を渡るのが近道であった。
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 城ノ下橋(じょうのした)橋

大谷川上流、生目神社と柏田を結ぶ県道9号の友尻に架かる。橋の名称は文字通り城の下による。橋の北およそ400mの高台に石塚城があった。城主は門川伊東氏の6世の孫伊東祐武で石塚殿と呼ばれ、伊東氏48城の1つであった。今、城ヶ丘団地になっている。また、橋の南およそ300mの高台に高蝉城があった。城ノ下という地名のいわれは石塚城か高蝉城のどちらかの城の下と思われる。

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 19. 金竹(きんちく)川

大谷川の支流。有田、柏原の丘陵を源流とする。明治初期は雁溝といっていた。跡江、柏原の水田域中央部を南西から東北に流れ、無田ノ上で大谷川に合流、延長1.0kmの2次支川である。川幅は狭く、平常の水面は低いが豪雨時にはん濫することがある。名称のいわれは不明。金竹は土地の境界など植えた竹の一種。金竹の竹むらがあったことから生まれた地名かもしれない。


 高(たか)橋

生目神社と柏田を結ぶ県道9号(生目神社住還)の金竹川(雁溝)に架かる。明治初期、石造の橋で長さ約5m幅約2mであった。高橋の近くに「石橋供養」という石碑が建立されている。天明7年(1787)に松橋の住人和助ら10人が、江戸回国して無事帰国できた記念に石橋を架けたもので、庄屋椎喜藤治や村役も連名している。江戸時代、庶民も四国遍路や伊勢参宮などに出かけていたので、和助らは坂東33観音や秩父など江戸回国に行ったものと思われる。明治初期の石橋は天明7年(1787)に架けられたものと思われる。

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 櫛無(くしなし)2号橋
高橋の数百メートル上流、金竹川に架かる。そのたもとに石橋供養塔が残されている。寛政6年(1794)加勢村の人々が建立していること、石工は億右衛門、庄屋は椎喜藤治であることなどが読み取れる。この橋は上小松から柏原(かしわばる)へ最短で行く路上にあることから柏原の住民が架設したことが推測される。碑文にある加勢村だが生目一帯に加勢という村名はない。柏原を地元では「かせばる」とよんでいたことから、「かせ」を「加勢」と表記したものと思われる。この橋も高橋同様、江戸時代に石で架けられていたことが分かる。
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 20. 宮之下(みやのした)川

大谷川の支川。明治初期は西溝とよばれ、生目の山府池を源流とする。川の名称は生目神社が鎮座する亀井山の下を流れていることから付いたと思われる。浮田で大谷川に合流する延長3.9kmの2次支川である。


 宮之下(みやのした)橋

宮之下川の下流、天下田に架かる。橋の名称は川の名による。橋の南およそ300mに生目神社あり、橋の北およそ300mに妙円寺跡がある。生目神社は古くから眼の神様として崇敬された。妙円寺跡は中世の石塔が多数残っていて、昔から人々の往来が多かったと思われる。

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 生目(いきめ)橋

宮之下川の中流、生目台から浮田を結ぶ新道路に架かる。橋の名称は近くに鎮座する生目神社による。当社祭神の一つに、藤原景清(ふじわらのかげきよ)がある。景清は平安末期の平家方の武将で、壇ノ浦(だんのうら)の戦い後、源氏に降参し後に絶食して亡くなっている。景清は謡曲(ようきょく)や能(のう)、歌舞伎(かぶき)などに脚色されて全国に知られるようになった。それらによると景清は日向国にくるが、源氏の栄える世を見るのは忍びないと、下北方(宮崎市)の景清廟で両眼を抉(えぐ)って投げたところ、現在の生目神社がある所まで飛び、まだ眼が生きていたという。それが地名や社名となったと伝えている。

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 高蝉(たかせみ)1号橋

宮之下川の下流、古城に架かる。橋の名称は近くにあった高蝉城(たかせびじょう)による。高蝉の語源は不明。なお、橋名を高蝉を「たかせみ」としているが、漢字をそのまま読んで誤ったものである。
高蝉城は本勝寺の北西、生目南中の東の丘陵にあった。丘陵の上は平地となっており城跡と確認できる。近年まで畑地だったようだが現在は杉が植林されている。西の端には妙円寺跡の石塔が残っている。高蝉城の築城年、築城者不明。応永8年(1401)島津氏の兵が立てこもって石塚城の伊東祐武を攻めようとしたが、祐武はこれを撃退している。
石塚城は高蝉城の北700mほどの所にあり、城主は門川伊東氏の6世の孫・伊東祐武で石塚殿と呼ばれた。伊東氏48城の一つ。今、城ヶ丘団地になっている。

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 21. 生目(いきめ)川

川の名称は、生目神社のわきを流れているのでこの付いた。生目橋参照。生目の丑山から流れ、宮ノ下川に合流する延長1.3kmの3次支川。



 22. 跡江(あとえ)川

川の名称は跡江地区を流域にすることによる。明治初期は津留溝(つるみぞ)とよばれた。源流は有田の上中尾、東流して下水流で大淀川に注ぐ。延長1.1kmの1次支川。跡江には、大昔の大淀川の流れと関係した地名である。



 23. 瓜生野(うりうの)川

瓜生野川は佐土原町との境、浦田越の集落附近を源として、柿の木原台・瓜生野平地などを縦走して、竹原田(たこんだ)附近で、大淀川と合流している延長2.0kmの1次支川である。瓜生野地区は山・平野・川に恵まれており、古墳時代からの多くの遺跡や文化財が数多く残っている。奈良時代に日向国の五郡八郷の内、瓜生郷が置かれた。この瓜生郷は延喜式(えんぎしき)によって、国名・郡名は2字を用いることが定められたため「瓜生野」から野の字をはぶき、『うりうの』と読ませたといわれている。
瓜生野川はこのような豊かな自然と積み重ねられた歴史の中で、多くの人々と共に生き続けている。


 上野(うえの)橋

明治41年(1908)から大正・昭和まで続いた「水路用石造りの太鼓橋(アーチ橋)」。橋の名は『銭都受橋』(ぜんつぶけばし)−「瓜生野・倉岡郷土史」による−
この橋の特長は水田への用水路と共に造られた橋で、当時文化財としての価値があるので壊すのは惜しいとの声も多かった。平成2年に改築されることになり記念の石碑が残されることになった。現在は橋の横に太い鉄パイプが取り付けられ送水橋としての役目も果たしている。橋名は上野という地名による。
銭都受(ぜんつぶけ)という地名は橋向こうの突き当たりの十一面観音堂のある所と、橋のたもとの一軒の住宅だけの地名であるといわれている。

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