佐賀城下

 

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佐賀城下(佐賀市)の長崎街道は佐賀城の防衛のため、城の北側を大きく迂回して通っていました。東の番所の構口から西の番所の八戸までの一里の道のりは複雑に折れ曲がった迷路のようです。

佐賀城下では願正寺と称念寺が仮本陣とされていました。寛政12年(1800)には呉服町の御用商人、野口恵助の私邸を改築して本陣としたといわれています。

伊勢神社の門前に東西にのびる伊勢屋町は旅籠街でした。伊勢神社の入口には肥前鳥居があります。

幕末、鍋島藩はアームストロング砲をつくり戊辰戦争で威力を発揮しました。長瀬町で西洋式反射炉が日本で最初に作られたのは嘉永3年(1850)のこと。嘉永6年(1853)のペリー来航で、あわてた幕府は当時最も技術力があった鍋島藩に大砲200門の鋳造を依頼しました。現在、日新小学校の敷地内には反射炉の模型や大砲が復元されていて見ることができます。

長瀬町から西へ向かう辺りには昔の街道の面影が残っています。上から見るとのこぎりの歯形のように見える家並みが続きます。敵が攻めてきたときに隠れて攻撃するために、このような形状にしたのです。

佐賀城下
 
のこぎりの歯形の家並み
   のこぎりの歯形の家並み

西の出入口の八戸を出たところにある高橋は、本庄川を通行する船の邪魔にならないよう橋桁を高くしてありました。復元された高橋は趣きのある姿を見せています。

元禄4年(1691)、佐賀城下を旅した出島のドイツ人医師ケンペルは『江戸参府旅行日記』にこう記しています。

「肥前国の城下町で城主松平肥前守がここの大きな城に住んでいる。町そのものは非常に大きく、また人口も多く、長い地域にわたっている。(略)幅広く、規則正しく東や南に向かってまっすぐ通る町筋を横切って、運河や川が流れ、それを利用して人々は有明湾まで行くことができる」。

復元された高橋
     復元された高橋

 

 

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