25. 深年(ふかとし)川

日向山地の東側斜面から本庄川に合流する延長18.3kmの2次支川。深年川の源は法華嶽(ほけだけ)の奥にある西都市の掃部岳(かもんだけ)の近くから湧き、長い谷筋を通って本庄川に流れ込む支川である。この様な支川は長短10本ほどもある。三名川・後川(うしろがわ)などの流れも細長い山地を東南に向かって流れ、沢山の雨水を運んでくる。国富町内の農地は高台の畑が多いため旱害(かんがい)に苦しめられたが、綾北川をはじめ本庄川の水を利用することが出来るようになって、県内でもすぐれた農産物の生産地となった。鎌倉時代に深年の地名があることから、川の名も同じ頃からあったものと思われる。いわれはよくわからない。


 塚原(つかばる)橋

六野原から三名、木脇へと続く台地の先端に塚原地区がある。台地上に塚原古墳があり、「塚(古墳)の原」から地名がついた。すぐ前が本庄川と深年川の合流地点である。本庄川と深年川の堤防に幅1.5m、長さが約80mほどの橋が架けられている。この橋は自転車専用橋で自転車と歩行者以外は通行できない。通称サイクリングロードといい、青少年が自然の中で安全にのびのびと活動できるように願って、綾町と宮崎市の間に作られたものである。

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 太田原(おおたばる)橋

太田原は宮崎方面と東諸県をつなぐ地域にあたり、商業の町で船着場や商品を保管する倉庫などが立ち並んでいたという。ほとんどの荷物は船で運搬していたが、地域では特にこの地に橋の必要がいわれていた。しかし、最初の木造橋ができたのは明治30年(1897)のことで、橋にこの地区の名前が付けられた。
橋が無かった頃、今の橋の200mぐらい下に渡し場があり、深年川の左岸の入江は船溜りとなっていた。また、右岸の蔵西の方には、荷を乗せた艀(はしけ)の通り道の堀が巡らされていたと伝えられている。

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 宮下(みやした)橋

三名の衾田(ふすまだ)神社のあたりを宮本という。神社のすぐ南にある橋なので、以前は宮下と書いて「みやもと」と発音していたとも考えられる。少し上手にある河跡湖の辺りは湾曲していて、船着場や高鍋藩の倉庫があった所で、北俣、六野原、伊佐生、三名辺りの産物が集められて船で運び出された。平成11年に頑丈な堤防と共に、鉄筋コンクリートの永久橋が架けられ、宮下橋と名付けられた。
「河跡湖」〜三日月湖ともいう。川の流れの変化で取り残された流路が池や湖のようになったところ。

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 三名(さんみょう)橋

平安朝の頃、大分県の宇佐八幡宮が所有していた土地が伊佐生、富松、衾田(ふすまだ)にあり名田(みょうでん)といっていた。この三か所の名田を合わせて三名(さんみょう)と呼んでいた。現在は県道の信号がある辺りを指しているようである。この県道の少し南に三名橋がある。明治の初め頃までは橋ではなく「渡し」があり船で人や荷物を運んでいた。川の水が少ない時は、人々は裸足になって歩いて渡っていた。この道は当時、都於郡(とのこおり)や本庄のまちへ出る道路で住還(おうかん)と呼ばれていた。

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 仮屋原(かりやばる)橋

仮屋原は1400年頃、絹分(木脇)の領主であった伊東祐安の家来の仮屋原甚左衛門という人が、薩摩の島津軍の攻撃を防ぐため、山の上に仮屋原城を築いた。
そして、仮屋原という地名ができたといわれている。その地名が平成11年に完成した新しい永久橋に名付けられた。それまで使われていた橋は、深年川に合流する直前の三名川の下流に架かっており「陣の下橋」という。現在も利用されている。

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 谷之口(たにのぐち)橋

平成16年に本庄の町のある台地の下を南北に貫くトンネルが掘られ、街の中心の通りから大型トラックの姿が消え、黒煙に悩まされることも少なくなった。そのトンネルの北側の出口に当たる所が字(あざ)「谷之口」である。橋を渡ると周りは青々とした水田である。トンネルの脇を登ると杉の林の中に谷が続いている。地域の字名が橋の名前になっている。

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 八幡(やはた)橋

天長8年(831)に大分の宇佐八幡宮から遷宮(せんぐう)された本庄八幡宮がある。橋は本庄の街から八幡宮までの参道にある。昭和の初め頃までは、川が余り深くなく、大人の腰ぐらいの水の嵩(かさ)なら、簡単に手ごろな棒杭2本を川の中に打ち込み、横木を冂のように結び、その上に道板を載せて橋が作られた。上にのせた道板がしなってゆらゆらするので男の子達は大変よろこんだ。この八幡地区出身の「柚木崎 敏」氏の自伝書に書かれている「ゆらゆら橋」は、この川をはじめあちこちの川にあった。

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 寺中(じちゅう)橋

寺中は鎌倉時代に伊東祐頼が絹分(木脇)の領主に任ぜられたとき、活躍してくれた兄の祐光(すけみつ)と父親の祐時(すけとき)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために「祐光寺」という寺を深年に建立した。その地域を「寺中」というようになった。本庄方面から寺中に行く道に架けられた橋が寺中橋と名付けられた。

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 永田(ながた)橋

深年の中心地であった殿所(とんところ)は字名を永田という。この地名が橋の名となっている。深年川に添った細長い地形で、川は寺の下あたりから湾曲をくりかえし、橋の下を潜ってもう一度直角に近く曲がり、その地点で後川(うしろかわ)と合流している。現在の永久橋は渡る時に少し傾きながらカーブする様に造られている。平成12年8月に完成した。

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 須志田(すしだ)橋

県(あがた)=延岡を本拠地にしていた土持氏は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の味方をし、建武2年(1335)の戦いで手柄を立てたので、一族の長の土持友綱に瓜生野(うりうの)の領地が与えられた。そこで友綱は須志田某(ぼう〜名前が分からないとき使う字)を移住させ、領地を治めさせた。その人は自分の姓の須志田をその土地の名と決めたので、それが橋の名前になったといわれている。

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 愛染(あいぞめ)橋

地域に残る伝説では、平安時代の中ごろに活躍した女流歌人の和泉式部は、困難な病気を治すため法華嶽薬師寺で修業していた。3年経ってすっかり良くなったので、もと住んでいた都へ帰ろうと川岸にたたずんでいると、汚い身なりの老人が現れて、この川を渡れないので背負って渡してくださいと頼んだ。式部はせっかく努力して治した体なのでその老人の様な汚い人は背負えないと断った。すると老人の姿は消え、式部は元の病気の体にもどってしまっていた。このような伝説のある川に架けられた橋が愛染橋と名付けられている。薬師様が老人に姿を変えて、式部の心の修業を試されたのだと伝えられている。土地の伝説から付いた名称。

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 26. 木脇(きわき)川

国富町東北部字大谷を源として、木脇に流れ深年川に合流する延長2.5kmの3次支川。木脇の地名で呼ばれている。


 寺前(てらまえ)橋 国富町

木脇の平原に石橋が残っている。ここには明治4年(1871)に廃寺となった西光寺という寺跡に通じる登り口にある。入り口の小川に石橋が架けられていて、この橋が流失したり、破壊されたりしないように、安全を祈って供養塔も建立されている。
寺の前にある橋なので、寺前橋というようになった。
供養塔には、明和七年(1770)四月吉祥日、伊助、金仁門、賀仁門、茂助、久三郎、弥次兵衛など12人の人の名があり、「奉 寄進石橋供養人数」と刻まれている。

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 27. 桑鶴(くわつる)川

国富町三名から流れ木脇川に合流する延長1.5kmの4次支川。地名のいわれは不明である。



 28. 宮本(みやもと)川

国富町三名から流れ深年川に合流する延長2.2kmの3次支川。宮本という集落の名称から付いた地名と思われる。



 29. 三名(さんみょう)川

日向山地の東側斜面から国富町八代南俣奥の、西都市掃部(かもん)岳の東から流れ深年川に合流する延長19.5kmの3次支川。三名の地名が川の名となっている(三名橋の項参照)



 30. 仮屋原(かりやばる)川

国富町島が迫から流れ、仮屋原地区をうるおして三名川に合流する延長3.1kmの4次支川。(仮屋原橋の項参照)



 31. 北俣(きたまた)川

国富町北俣から流れ三名川に合流する延長3.6kmの4次支川。北俣は、三名川が北と南に分かれるので、このように呼ばれている。川が二股に分かれるとこのような地名が付けられることが多い。



 32. 永山(ながやま)川

国富町北俣から流れ北俣川に合流する延長2.5kmの5次支川。永山は地名から付いたと思われる。



 33. 後(うしろ)川

国富町柳の元から流れ深年川に合流する延長6.0kmの3次支川。法華嶽薬師寺に連なる台地の南と北に川が流れているが、どちらの川筋かはっきりさせるために、南側を流れる深年川を前の川、北側を流れる川は「後(うしろ)川」とすることで名前が付けられたものと思われる。


 佛喰田(ぶっしょくでん)橋

台地の北側を流れる後川(うしろかわ)と、県道綾西都線が交わる所に架かっている橋で、深年の外上水流(そとかみづる)という所にある。ここは上流にある法華嶽薬師寺に差し上げるお米を作っていた「佛喰田(ぶつしょくでん)」があったとされている。現在、その水田は橋の上の方にあったとだけしか伝えられていない。珍しい地名である。

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 34. 明久(あきひさ)川

高岡町仁反田から流れ本庄川に合流する延長5.5kmの2次支川。明久のいわれは不明。



 35. 竹田(たけだ)川

国富町石峯公園の麓山ノ田から流れ本庄川に合流する延長1.2kmの2次支川。竹田という集落がある。地名から付いた川の名称。


 政所(まんどころ)橋

「政所(まんどころ)」とは平安時代の親王家や摂関家の家政を司る所といわれている。本庄川や太田原川の岸にはなぜか「まんどころ」という地名がある。川岸の船着場の事務所や倉庫を政所と間違えていっていたのか、領主が代わると政所も場所が変わったのか、又は川の流れが変わったことも考えられる。
竹田地区の県道の橋の近くは本庄川が蛇行(だこう)してすぐ近くを流れていたといわれている。この橋のあたりを地域の人々は「庄屋どんが居んなさった所」といい伝える。本庄川はこのあたりまで蛇行していたといわれており、この辺りに役所や船着場、穀物倉庫があったのでこの名称になったのではないかと考えられる。

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 36. 森永(もりなが)川

綾町湯ノ谷から流れ本庄川に合流する延長3.5kmの2次支川。森永地域では浦田川または裏田(うらんた)川ということが多い。森永付近に流れ出るのでこの名称になったと思われる。(森永橋の項参照)


 年之神(としのかみ)橋

森永川の橋は農作業の為に使われるだけでなく、一般通行用の橋もある。綾町との境にある「年の神橋」である。南九州では稲の豊作を祈るために、「田の神さぁ」を水田がよく見えるところに祀るが、東諸県郡では「年の神」を祀ることが多い。この市之野地区でも村の守り神はすこし離れた林の中に祀られている。村人の通る橋の辺りに祀ってあったものが、いつしか橋の名前に残ったのだろう。年の神は新年に各家に幸運をもたらす神。年の神を迎えるのが正月である。

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 永福(ながふく)橋

国富町森永から綾町に入った所の森永川(猪ノ谷川ともいう、水源の湯ノ谷のなまりか?)に架かる橋で、主要地方道26号宮崎須木線が通る。昭和37年(1962)3月の竣工で、長さ約15m、幅約6.5m。隣接して永福橋道橋が昭和55年(1980)3月にできた。橋名の意味は不明。昔、橋を架けた人の名であろうか。

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 37. 綾北(あやきた)川

熊本県球磨郡多良木町白鬚岳の山中から流れ、田代八重ダムや綾北ダムを経て綾北川V字渓谷を南流東流し、国富町森永で綾南川(本庄川)と合流する。延長約45.3kmの2次支川。小林市須木では北川という。川名は「綾の北側・北俣村を流れる川」の意味であろう。江戸時代の薩摩藩では綾川(綾の北川・南川)でとれるアブリ鮎(黄金鮎)を藩内第一の佳品(かひん・すぐれた品物)として徳川将軍に献上(けんじょう)していたという。


 川久保(かわくぼ)橋

綾北川のもっとも下流、国富町森永から綾町に入った所に架かる大きな橋で、主要地方道26号宮崎須木線が通る。明治35年(1902)に宮崎−綾間の県道ができた時は、現在の橋の約50m上流に渡船場があった。その後、木橋が架けられ、大正10年(1921)7月綾北発電所の運転開始の時に、電灯一個が設置された。馬車は荷を空にしなければ通れないほどの橋であった。その後補強されたが、昭和の初め頃はバスが通ると揺れるほどであった。昭和15年(1940)10月永久橋になった。現在の橋は昭和54年(1979)3月の竣工で、長さ約130m、幅約12m。
橋名は小字名にちなむ。久保は窪の当て字で、川久保は「川沿いの窪地」の意味である。この辺りは、綾北川が森永の平城の直ぐ下辺りを流れていた頃、深くえぐられ河跡湖になっていたせいで、かなり低地になっていた。そこで地域の人々はこの辺りを川窪(かわくぼ)と呼んでいた。

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 入野(いりの)橋

綾町中心部(役場)から東北に1.5kmほど行った所の綾北川に架かる橋で、主要地方道40号都農綾線が通る。かつては一本橋と渡し場があったが、大正9年(1920)綾営林署のトロッコ用の橋(トロ橋・犬引き)が架けられた。地元民の通行は認められていたが、敗戦後の昭和22年(1947)からは一般の人々も通れるようになった。昭和39年(1964)4月永久橋になった。長さ約100m、幅約3.5m。昭和56年(1979)3月架け替えられたが、現在のゆるやかにカーブした入野橋はその約50m上流に平成17年10月に竣工した。長さ約126m、幅約11m。橋名は大字名にちなむ。入野は「山や谷間の奥に入り込んだ野原」の意味。地元では入野は神武天皇の兄君の三毛入野命(みけいりのみこと)が天岩戸と高千穂峰を往復された時に、当地に滞在されていたという伝説にちなむという。

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 綾尾堂(あやおどう)橋

入野橋の1kmほど上流の綾北川に架かる橋で、南詰が町道116号北麓・市野々線と一般県道363号綾宮崎自転車道の起点になっている。現在の永久橋は昭和63年(1988)9月の竣工で、長さ約190m、幅約6.5m。橋名は小字名による。尾堂は左岸山腹にあるお堂(祠・ほこら)の意味であろう。

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 小田爪(こたづめ)橋

綾町中心部(役場)から西北へ約2kmほど行った所の綾北川に架かる橋で、一般県道361号綾法ヶ岳線の起点になっている。かつては一本橋や渡し場があったが、昭和33年(1958)に木橋が架けられた。長さ約133m、幅約2m。昭和48年(1973)11月に永久橋になった。長さ約150m、幅約5.5m。小田爪集落の子供たちは増水期にも何の心配もなく通学できるようになった。橋名は小字名にちなむ。小田爪は「平地の奥の行き詰った小さな田地」の意味であると考えられる。

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 田代八重(たしろばえ)大橋

綾北川の上流にある。ここにはかつては、集落があり、田代八重小学校もあったが、現在は田代八重ダムとなっており、この上流に架かっている橋。なお、ダム建設の事前調査で、ここには縄文時代の田代八重遺跡があったことがわかった。こういう山中にも当時の人々は住んでいたのである。『日向地誌』には(田代ヶ八重)と書いてある。田代八重は山の奥の方にある土地の意味である。

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 下槻木(しもつきのき)橋

熊本県多良木(たらき)町の湯の原川と綾北川の合流点に架かっている橋である。この橋の近くに多良木町槻木の集落がある。その地名から付けられたと思われる。ケヤキの古名を、槻(つき)あるいは槻木(つきのき)という。このあたりはケヤキが多かったので、昔の板橋はケヤキで作られていたといわれる。

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 椎屋(しいや)吊橋

綾町中心部(役場)から西北に約3km行った所の、綾北川に架かる歩行者用吊り 橋で、町道227号尾谷線の終点にある。椎屋という集落名から橋の名が付いている。右岸の一般県道360号田代八重綾線のバス停から吊り橋を渡ると綾川荘に行く。1km程上流の綾第二発電所住宅地の吊り橋が不要になり、昭和37年(1962)12月に移設された。長さ約60m、工費25万円。現在の吊り橋は昭和48年(1973)3月竣工、長さ約65m、幅約1.2m。工費515万円。橋名の椎屋は小字名にちなむ。通称は権現(ごんげん)橋という。権現は綾川荘北側山腹の今熊野三柱神社を通称権現様というのにちなむ。かつては権現様への渡り場であった。

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 椎屋(しいや)橋

綾町中心部(役場)から西北に3kmほど行った所の綾北川に架かる橋で、一般県道360号田代八重綾線が通る。現在の橋は昭和54年(1979)3月竣工、長さ約68m、幅約10m。橋名の椎屋は小字名にちなむ。シイは「断崖や地形のけわしい場所の上にある平地」の意味で、「椎屋」は「椎谷」の当て字であろう。

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 境谷(さかいだに)橋

綾町から小林市須木に入ったところの綾北川に架かる橋で、一般県道360号田代八重綾線が通る。長さ約14m、幅約3.5m。橋名は「境の谷に架かる橋」の意味であろう。竣工年月は不明。

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