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岩熊井堰・天下サイフォン

 岩熊井堰は五ヶ瀬川における利水事業の中で最も大きな事業であって十年の年月と多くの犠牲によりできあがった事業である。

 この事業は延岡藩主牧野貞通の時代の1724年から1734年にかけて施工されたものであるこの事業は牧野氏の前の有馬氏の所領時代に計画されたことがあったが実行されるに至らなかった。

 延岡城下の出北村は現在、旭化成の工場群があり延岡市の工業の中心地となっているが、当時は水田がなく畑地ばかりで「出北のひばりの巣」と呼ばれていた。従って出北村の農民はきわめて貧困であった。

 この農村の窮状を見た当時の家老藤江監物はなんとかしてこれを救おうと考えた。時代も八代将軍吉宗によって開墾や耕地の改良が奨励されていたので監物は五ヶ瀬川の水を引いて北出の畑地を水田化することを考え、郡奉行江尻喜多右衛門を抜擢してこの事業にあたらせることとした。

 それは五ヶ瀬川右岸の三輪村の岩熊に水路を設け、対岸の吉野村との間に井堰を作り、その水を出北村に引くという計画であった。工事は1724年に着工されたが、五ヶ瀬川の大河に堰を設けるという大工事であるから莫大な資金が必要であり、また水路の延長は三里に達し、かつ途中に六ヶ所の隧道を貫かねばならなかった。しかも当時の藩主貞通は元服間もない青年であり、藩の財政は極度に逼迫していた。

 そればかりか五ヶ瀬川は毎年のように氾濫して水路や井堰の工事はその都度破壊された。
こういった経緯で、この事業について藩内に反対派を生じ、監物はこれらの人々のために讒言され、多くの人夫を集めているのを多数の婦人を抱えていると訴え、工事用の諸道具を買い込んだのは謀反のための武器を買い込んだと告げられ、ついに監物は工事半ばに捕縛され、その長男図書以下三子とともに七折村船之尾の牢に繋がれたが、弱体の長男が病死したのを見て悲憤に堪えずに牢中に死亡した。

 しかし江尻喜多右衛門はこれに屈せず工事を進めた。工事の人夫は主として出北村から聴取され、他の村の農民も初めは加わったが、後には努力の甲斐無く洪水によって破壊されるので馬鹿馬鹿しいと出役を止め、果ては出役者を嘲笑するに至った。

 出北の農民たちは自村のことであるから無理に出役したが、密かに夜逃げをするものが続出するに至った。この間にあって喜多右衛門はこれらの農民をよく指導しつつ遂にこの工事を完成したのであった。時に1734年であった。

 この工事の内容を見ると、三輪村と吉野村貝の畑の間に五ヶ瀬川を横切って枠堰を設け110間4尺、幅15間に木柵を組み巨石を埋めて中程に舟路を設け、南岸の用水路取入口から分水点までの距離が2,959間5分でこの中に6ヶ所の隧道があり、隧道の延長だけが204間余りであった。


岩熊井堰(五ヶ瀬川11K000付近)
岩熊井堰は五ヶ瀬川の農業用水利用の中で大規模かつ重要な取水施設となっている。