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歴史的構造物

デ・レーケ導流堤(どうりゅうてい)

デ・レーケ導流堤(どうりゅうてい)舟運の妨げとなる土砂の堆積を防ぎ、航路を確保するため、明治23年(1890)、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの設計により作られたといわれている。全長は約6kmあり、今もなお、自然の川の流れだけで水深を維持できるようになっている。

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荒籠(あらこ)

荒籠川岸から、川の中央に向かって張り出している石垣のような構造物のこと。主な機能は航路維持をはじめ、護岸、干潟の造成、陸への昇降場などと思われる。また、筑後川をはさんで対立していた筑前と筑後の国々が、水勢を相手側にはねだすために争って作ったという史実もある。

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干拓堤防(二線堤)(かんたくていぼう にせんてい)

干拓堤防有明海岸沿岸は、そのほとんどが干拓によりできた土地。江戸時代中期に盛んに行われた干拓では、堤防に石垣が使われるようになった。今もなお、東与賀町や川副町などには干拓の跡、石積み堤防が残り、干拓の歴史を物語っている。

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佐賀藩三重津海軍所跡(さがはんみえつかいぐんしょあと)

佐賀藩三重津海軍所跡日本海軍発祥の地。安政5年(1858)に船手稽古所が開設されたのがはじまりで、文久元年(1861)には日本赤十字社の初代社長となった佐野常民が監督となって、海軍所が創設された。慶応元年(1865)には、日本初の国産蒸気船も建造された。

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酒見堰(さけみぜき)

酒見堰有明海の約6mもの干満差を利用して河川水(アオ)を農業用に取水するために作られた堰。満潮時に筑後川を遡ってきた海水が比重の軽い河川水を押し上げる現象を暮らしに活かしたもので、満潮時に河川水位よりも地盤が低い土地ならではの風物であった。

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昇開橋(しょうかいきょう)

昇開橋昭和10年(1935)、旧国鉄佐賀線ができると同時に架橋された東洋一の可動式鉄橋。大型船の往来の度に中央部の昇降橋が上下していた。昭和62年(1987)佐賀線廃止ののち、平成8年(1996)からは「タワーブリッジ遊歩道」として観光スポットに。

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クリーク

クリーク筑後川は平野部の一番低いところを流れているため、自然に水を田畑に引くことが困難であった。そこでかんがいや貯水、排水などを目的とした水路をつくり、アオ取水で水を導いた。干潟の澪筋がもとといわれ、不規則な形が大部分であるが、一部は整然となっている。これは大化改新の班田による条理の名残りで全国的にも珍しい。

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捷水路群(しょうすいろぐん)

捷水路群各所で蛇行していた筑後川は、洪水の度に湾曲部から氾濫。そのため、水がスムーズに流れるようにできるだけ直線的にする捷水路工事が藩政時代から行われていた。昭和に入って完成した坂口、天建寺、小森野、金島を筑後川の4大捷水路と呼んでいる。
(写真は坂口捷水路)

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田中吉政碑(たなかよしまさひ)

田中吉政碑近世初頭の筑後藩主。関ヶ原の合戦での功績により、慶長6年(1601)、筑後一円32万5千石を賜り柳川に居城。築堤や、新川開削、舟運のための浚渫など、筑後川の治水において大きな功績を残した。

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渡し

渡し橋が少なかった時代、川を渡る手段は船が主で、筑後川にも62ケ所の渡し場があったといわれる。しかし、昭和30年代から各地で橋が架けられ、急速に減少。平成6年(1994)、下田の渡しを最後にこの筑後川の風物はすべて姿を消した。

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旧埼水門モニュメント(きゅうさきすいもん)

旧埼水門モニュメント佐賀県の千代田町にある「次郎の森公園」には、明治34年(1901)、有明海の塩害や、筑後川から佐賀江川への逆流を防ぐ目的で作られた旧埼水門が復元されている。

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野越(のこし)

野越成富兵庫茂安が考え出した土木技術の一つ。堤防や水路、道路などの一部をわざと低くすることをいう。洪水はここから溢れるので、破堤や、下流へ大量の洪水が一気に押し寄せることを防ぐことができる。

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めがね橋

めがね橋脊振村にある、城原川を横切る橋。明治24年(1891)架橋された最初の橋は高さ15m、幅2.5mの御影石造り。その丈夫さは、明治40年(1907)の大雨でも流されなかったことから、「ツルは千年、カメは万年、眼鏡橋の強さは千万年」とうたわれたほど。

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蛤水道(はまぐりすいどう)

蛤水道元和年間(1615~1623)に成富兵庫茂安が築いた用水路。蛤岳から筑前の国(福岡方面)に流れている大野川の水を引き入れ、水不足に悩む田手川流域のかんがい用水とした。毎年5月、水道の起点近くの水功碑でこの偉業を讃える兵庫祭が行われている。

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成富兵庫茂安築堤功績碑(なりとみひょうごしげやすちくていこうせきひ)

成富兵庫茂安築堤功績碑成富兵庫茂安は、佐賀藩主鍋島直茂、勝茂に仕えた家老。嘉瀬川の石井樋、筑後川の千栗堤防など、当時としては斬新な手法で、数々の河川改修を行った。佐賀県には北茂安町や兵庫町など、その名が町名として残っている場所も。

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安武堤防(やすたけていぼう)

安武堤防久留米藩が洪水被害を防ぐため、寛永年間(1626~1641頃)に築いた延長約4kmの堤防。その後寛保元年(1741)に1.4km延長された。対岸の佐賀藩によって千栗堤防が築堤されたため、久留米藩側でも洪水の被害を防ぐためにつくられたもの。

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千栗堤防(ちりくていぼう)

千栗堤防洪水による被害から領地を守るため、寛永年間(1624~1643頃)、佐賀藩士成富兵庫茂安により12年の歳月をかけて築堤された。霞堤など、不連続堤が主流の当時、延長12kmの連続堤、しかも二重の堤防は画期的であった。また、堤防には、洪水の勢いを弱める竹や非常時の資材となる杉を植えるなどのアイデアも満載されていた。

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長門石八幡の碇石(ながといしはちまんのいかりいし)

長門石八幡の碇石山口県長門から運ばれた平家ゆかりの石といわれ、長門石の町名の由来ともなっている。11世紀~12世紀、中国船が使用した碇石で、当時、この地域で中国船による交流があったことが推定される。

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灌水記念碑(かんすいきねんひ)

灌水記念碑明治以後、動力ポンプによって水を汲み上げてかんがいに利用する先駆けとなったことを記念して設置された。

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水天宮(すいてんぐう)

水天宮全国水天宮の総本宮。水に縁のある神社として、水難除けの神として信仰されている。国土交通省(旧建設省)の前身、内務省筑後川改修事務所は大正12年(1923)、この水天宮の裏に設置され、この年から筑後川は国の直轄事業として改修工事が施行されることになった。

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久留米城掘割(くるめじょうほりわり)

久留米城掘割明治維新まで、約250年間筑後地方を治めた有馬氏の居城だった久留米城。城の周囲をめぐる掘割の水は、筑後川から引かれていた。

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沈橋

沈橋普段は渡れても、水かさが増すと水面下に沈んでしまうため、この名で呼ばれる。建設費が安いため以前は各地で見られたが、洪水時に水の流れを阻害し、氾濫の危険性を大きくするため、次第に姿を消している。

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水屋・揚げ舟(みずや・あげふね)

水屋・揚げ舟どちらも、洪水常襲地帯の住民が生み出した知恵。水屋は、敷地内に一段高く土を盛って基礎を作った避難場所で、普段は倉庫として利用された。揚げ舟は洪水の避難時のための舟で、天井や倉庫の軒下などに揚げて保管されたことからそう呼ばれた。

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宮入貝供養碑(みやいりがいくようひ)

宮入貝供養碑筑後川流域の一部で風土病として恐れられていた日本住血吸虫病。その根絶のために中間宿主である宮入貝を駆除する対策が進められた。薬剤の散布をはじめ河川の高水敷整備や農業用水路のコンクリートによる三面張りなど生息環境を改変。昭和58年(1983)を最後に、宮入貝の生息は確認されていない。

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筑後川改修工事記念碑

筑後川改修工事記念碑明治29年(1896)から8か年の継続事業として行われた筑後川の第二期改修工事の竣功を記念して建立。詳しい工事の内容は不明であるが、事業実施中に発生した洪水では、改修工事の進展が被害軽減に効果があったと評価する記録が残っている。

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副堤(控堤)(ふくてい ひかえてい)

副堤(控堤)本堤にほぼ平行してつくられた小堤防。本堤が切れた場合などに備えたもので、遊水効果を持っている。。恵利堰の下流、古川との合流部、柳瀬地区から唐島地区、巨瀬川下流部飯田地区付近に見られる。

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北野天満宮

北野天満宮天喜2年(1054)の創建。菅原道真公をお祀りした境内には、鮮やかな朱の楼門や樹齢900年の大楠が。数々の伝説がのこるカッパの手が宝物として伝わる。

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稲吉堰(いなよしぜき)

稲吉堰宝満川にある、丹羽頼母により築造された堰。正保4年(1647)に完成し、宝満川沿岸一帯740町歩を水田化した。丹羽頼母が初めて着手した利水事業の井堰で、この完成が、のちの大石堰、袋野堰(夜明ダムの完成で水没)などの大事業計画の基礎となった。

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石浦大橋(いしうらおおはし)

石浦大橋久留米市大橋町の名前の由来ともなっている橋で、豊後街道が巨瀬川を渡る場所にあった。福岡県内に残る石橋では3番目に古く、元禄11年(1698)の架橋。一時解体されていたが、地域住民の要望によって、現在は復元され歴史公園に保存されている。

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草野又六碑(くさのまたろくひ)

草野又六碑久留米藩士。宝永7年(1710)の大干ばつをきっかけに、恵利堰、床島堰、佐田堰を地元の庄屋五人と築造。その功績により、大堰神社に合祀されている。胸像は、昭和40年(1965)、水利組合により草野町発心公園に建立されたもの。

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大堰神社(おおぜきじんじゃ)

大堰神社恵利堰、床島堰、佐田堰を築造し、大干ばつで水不足に苦しんでいた農民を救った草野又六と五人の庄屋の偉業をたたえて建てられた神社。毎年5月には水天宮祭が行われ、こどもの水難防止や豊作を願う農家の人で賑わう。

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輪中堤(わじゅうてい)

輪中堤洪水から集落を守るために、輪のように堤防をめぐらせたもので、筑後川では久留米市周辺をはじめ洪水常襲地帯の中流域にいくつかの輪中堤がみられた。輪中の建設は鎌倉時代から進められたといわれるが、現存するものは少ない。

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恵利堰(えりぜき)

恵利堰大石堰、山田堰とならび筑後川三大井堰と呼ばれている。正徳年間(1711~1716)の築造後、流失・修復を繰り返し、現在はコンクリート製。改修後の堰には、魚がスムーズに移動しやすいように、魚道が設けられている。

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霞堤(かすみてい)

霞堤不連続堤のもっとも代表的なもので、開口部が重複した堤防のこと。流れの速い川でよく用いられた。洪水は開口部に逆流することで勢いが弱まり、また、洪水を一時的に霞堤部分にため込むことで「洪水調整効果」を発揮した。また、上流部で氾濫しても、洪水は下流部の開口部から川に戻ることができ、その後には肥土が残るなど、自然をよく見て作られていた。

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堀川用水

堀川用水寛文2~3年(1662~1663)の大干ばつがきっかけで造成工事が行われる。その後、当時の庄屋古賀百工を中心に現在の位置に取水口を変更。岩盤をくり抜いた切貫水門に。現在も663ヘクタールの水田を潤している。

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朝倉三連水車

朝倉三連水車山田堰から引かれた水は、18世紀中頃につくられたこの水車の働きで、川より高い土地にも行き渡るようになり、朝倉地方の農業は飛躍的に発展したといわれる。平成2年(1990)7月、堀川用水とともに、国指定史跡に指定された。

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山田堰

山田堰流れが速いため、堰を作る工事は非常に苦労したという。試行錯誤の末、川を斜めにせきとめる方法で、寛文4年(1664)に完成。その後大改修が行われ、寛成2年(1790)にほぼ現在の形となった。洪水などで流失・修復を繰り返しながらも、現在もなお昔の面影をとどめている。近くに工事の安全と水難除けを願った山田堰水神社がある。

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長野水神社(ながのすいじんじゃ)

長野水神社大石堰の築造に功績のあった山下助左衛門をはじめとする5人の庄屋を祀る神社。毎年4月8日には、5人の庄屋をたたえる五霊社春の大祭が行われる。

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水制三種

1.三基枠水制(さんきわくすいせい)

三基枠水制筑後川の中流域(47kmから51km付近)には、さまざまなコンクリート製の水制が見られる。いずれも水の流れを川の中央側にはねだして、河岸を浸食から守るのが役目。昭和30年代後半から、全国的な傾向として根固め工が施工されるようになり、水制は激減した。

2.大聖牛水制(だいせいぎゅうすいせい)

大聖牛水制丸太材を三角錐に組み立てたもので、牛の姿に似ていることから命名されたといわれている。流れの早い川の水が岸にあたる部分に置かれるもので、水の勢いを緩めたり、流れの方向を変える効果がある。写真のものはコンクリート材で耐久性を高めている。

3.コンクリート杭出水制(くいだしすいせい)

コンクリート杭出水制杭を一定の間隔で打ち込む水制で、比較的流れが緩やかな川で使用するもの。水の流れに変化をつける働きがある。洪水時に高水敷が水で削られるのを防ぐことを目的に設置されたもので、昭和28(1953)年洪水の復旧工事の一環として設置されたものと思われる。

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水はね

水はね藩政時代、自国の領土を守るため、水の勢いを相手方に向かわせられるよう、川の中に作られたもの。川の中に向かって突き出すように石を積み上げたもので、現在でも杷木町付近では昔のままの姿で見られる。

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大石堰

大石堰寛文3年(1663)の大干ばつを機に、地元の五庄屋が提案し、久留米藩の丹羽頼母を監督として、延べ四万人を動員して完工。昭和28年の大水害で流失後、固定コンクリート堰に改修された。左岸側にある大石水神社には偉業をたたえる「三堰碑」が建てられている。

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夜明ダム(よあけ)

夜明ダム建設工事完成直前に昭和28年(1953)の大水害に見舞われるなど、難関を乗り越えて、昭和29年に完成。発電用のダムで、長さ223m、高さ15m、10門のゲートを持つ。最大出力は1時間に1万2千キロワット。これで25000戸の家々に電気を送っている。このダムの完成によって、延宝4年(1676)につくられた袋野堰が水没した。

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田栄神社(たさかじんじゃ)

田栄神社袋野堰の建設に尽力した大庄屋田代弥三左衛門重栄の徳をしのんで建立された社。袋野堰は田代氏が独力で苦労して築造したもので、延宝4年(1676)に完成。昭和29年に夜明ダムができたために、水没した。

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日田の川沿いの民家

日田の川沿いの民家日田の川沿いでは、川が増水しても、家が浸ることのないよう、石積みで基礎を高くした家々が建ち並ぶ。船着場の機能を備えたところもあるなど、水と共存していた人々の暮らしが、今もなお息づいている。

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三隈堰(みくまぜき)

三隈堰文政年間(1823頃)築造された堰。現在の堰は昭和34年(1959)に改築されたもので、長さ150m、高さ3.6m。約40ヘクタールの水田を灌漑している。

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竹田公園人助けの椋(むく)

竹田公園人助けの椋三隈川の右岸にそびえる樹齢数百年の大椋。明治22年、大正10年と二度の大水害で、その椋にしがみついた93人の命を濁流から救った。大正11年5月、この樹下に「霊木記念碑」という石碑が建てられた。

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