名前の由来

筑後川の概要  ●名前の由来  ●筑後川流域の詳細  ●大規模事業  ●流域の産業

筑後川、それは九州第一の河川であり、板東太郎(利根川)、吉野三郎(吉野川)と共に、筑紫次郎ともよばれ、国内有数の大河川である。

この筑後川は、数多くの文献、伝説等を残しながらも、公式に筑後川と呼称されるようになったのは、寛永13年(1636年)である。筑後川はその古名を『ちとせ川』(千年川)、「一夜川」、時には、筑前、筑後両国の中間にあるため『筑間川』とも呼ばれていた。

ちとせ川(千年川、千歳川)

鎌倉時代(約660年前)藤原長清撰集による「夫木和歌抄」第24、河の部には、ちとせ川(筑前)光明峰寺入道攝政の証歌として次の一首がある。

「君か為かきりもあらし千とせ川ゐせきの波のいくめくりとも」

江戸幕府時代(約300年前)僧澄円の「歌枕名寄」第35巻、西海部上には、

「我君のなかれ久しきちとせ川波しつかなる世につかへつつ」

さらに明和、安永の頃(約200年前)の「米藩誌文選」巻1に、中村梅塢(久留米藩儒者)が 「中秋冷舟千年川」の詩をよみ寛政7年(1796年)蝶夢の編集した「俳譜名所小鏡」の筑後の部「千歳川」に蝶酔の句として 「菜の花の色もはてなし千歳川」 とあり、この頃にはもう筑紫平野に菜種の植付がなされていたようである。

文政、天保年間(約130年前)ごろになると名称の由来、古名等が判然としてくる。筑前の国学者青柳種磨の「筑前続風土記拾遣」には、「千年川、此川筑前筑後両国の堺にありて両国に属す、川の中流を以って両国の堺とす、筑後の間を流るること長き故に世に筑後川とも云い・・・・・・千年川は古名也」と記してあるところから、千年川が当時の流域住民に愛称きれたことは容易に推察できる。

千歳川のいわれについては、”(社)歴史と自然を守る会”の会報に、田中正日子が執筆された文章のなかに、その記述が有りますので、以下抜粋をそのまま掲載させていただきます。

「磐瀬行宮に入った斉明天皇は、那大津を長津に改称したといった。朝鮮半島の表玄関の役割を果たした那大津が、今後も長く栄えることを願ってのことである。そして同じ願いは、朝倉橘広庭宮の「橘」にも込められていた。

垂仁天皇紀には、田道間守が「神仙の秘区」といわれる「常世国」に「非時(ときじく)の香菓」を探しに行った話がある。トキジクの香菓は、時を選ばずにいつでも実る香しい果実であり、今の橘(柑橘類)を指している。常緑性と香りが推賞されて、聖武天皇は橘諸兄一族への祝賀歌に「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉(常世)の樹」 (万葉集、巻六-一〇九)と詠んでいる。

志波地区の東側の高山は、地元では香具山とも呼ばれている。香菓山が変化したものであろう。また近くを流れる筑後川の古名は千歳川で、不老長生にちなんでいる。六十八歳の斉明天皇が、志波の台地を神仙境になぞらえて残った呼称だと考えている。」
(この項:「ふるさとの自然と歴史」1998年3月第267号、田中正日子執筆”斉明天皇と朝倉宮”より)

なお、この田中氏の”筑紫平野からの古代史検証”の執筆文には、、「橘田」と「中島」の地名の由来や、千歳の語源が大和朝廷の神仙思想基づくこと、さらに、当時、筑後川流域に設けられた「朝倉橘広庭宮」と筑後川の河道変遷の関係等も考察も含めて検証されています。

筑後川を下流から望む 「朝倉橘広庭宮」は、向かって川の左(右岸側)に設けられていたとの説が現在では有力。河川は、当時は、向かって放水路よりもっと右側を流れていたと考えられている。

行宮があった付近の航空写真

一夜川

一夜川については、室町時代(約480年前)宗祇法師の著書「名所方角抄」には  

「一夜川、千年とも俗に筑後川とも云う也」

と記載されているが、一夜川はおそらく、伝説的な含みと、流域住民の悲しい名残りがあるのではなかろうか。古老の話によると、川の流域は地味肥沃で農耕最適の地ながらも、降雨後の土地は、一夜にして荒涼たる土地に変ぼうすることから、一夜川と呼んだというが、当時の治水事業から考えると当然であり、流域住民の苦慮が古老の伝説めいた話からも推測できる。

筑間川

筑間川。

それは旧藩時代の筑前、筑後の両国の中間を流れていたところから名付けられ、「筑間川」が「筑後川」の前身であろうと推測することが出来る。

「石原家記」によれば、  「寛永13年(1636年)3月17日、筑間川改め筑後川と称すべき幕命ありしも、島原の乱に取り紛れ移牒遅延して同15年に至り始めて久留米藩に通達せり」 とあり、「米府年表」には、  「寛永15年(1638年)8月6 日、筑間川以来筑後川と可唱旨松平若狭殿、安藤但馬殿より御老中被仰渡有馬主水宛御書渡有之・・・・・・」とあり、この時期においてはじめて筑後川となるのである。

筑後川

この筑後川の名称採択については面白い話があると古老はいう。

筑前、筑後の家老が参列し、河川名の評定のあったとき、老中がこの川の名称はどうするかと質問したところ、はっとした筑前の家老は、思わず「あの筑後川は・・・・・・」と口をすべらした。

そこで老中時を移さず「よし決った今後は筑後川と呼ぶ」ということで筑後川と呼ばれることになったが、おそらく筑前川というべきところを筑後川と間違えたのであろう。もし、筑前の家老の失言?がなかったら、筑前川、従来通りの筑間川、あるいは筑後川のどの名称が採択されただろうか、口はわざわいのもとというが、筑前の家老こそ気の毒であると語ってくれた。

このように、筑後川にまつわる、幾多の文献、伝説等を残しつつ、また、幾多の山積する問題を抱えながらも、現在の筑後川は母なる川の恩恵を与えながら延々と有明の海に今日も雄大な流れを注いでいる。

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