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名島橋の歴史TOP
その1
その2

室町幕府の足がかりとなった、多々良浜の合戦
 1336年、名島橋がかかる多々良川を挟んで、後に室町幕府を築いた足利尊氏と肥後の武将菊池武敏が、それぞれの軍勢を率いて激しい合戦を繰り広げ、尊氏が勝利しました。古戦場の跡は、いまは住宅街と流通センターへと姿を変えています。

現在の流通センター付近

戦国の名将、小早川隆景が築いた名島の城下町
 1587年、九州征伐にやってきた豊臣秀吉は博多の島津を討つと、最も信頼する家臣・小早川隆景を筑前の領主にし、博多の街の復興と、九州の監視を命じました。隆景は、三方を水に囲まれた実践向きの海城・名島城を築き、その城下は茶会や博多松ばやしなど催され、たいそう賑わったといいます。

名島城址

渡し舟から木橋の時代へ
 江戸時代の1823年に初めて埋め立てが行われてからも、多々良川の河口付近には木の仮橋があっただけでした。そこで明治時代には、住民たちが村営で有料の渡し舟を始めました。その後、明治43年(1910年)には、地元の有志の出資により、総ヒノキ造りの立派な木橋が完成しました。この木橋によって、箱崎・博多方面と名島の人々の往来は、格段に活発になったことでしょう。

明治の画家松尾晃華の描いた
博多湾の絵には、名島の木橋がみえる

時代の脚光を浴びる名島
 橋の波及効果か、名島は時代の脚光を浴びるようになっていきました。大正9年(1920年)には東洋一の規模をほこる石炭火力発電所が建設され、さらに昭和5年(1930年)には水上飛行場が開設され、大阪・上海へと定期便が運行するようになりました。

名島1丁目にある飛行場の記念碑