寛政三年十月八日〜閏二月下旬 寛政四年三月朔日〜四月朔日 まとめ ホーム
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四月二日〜 四月二日(5月22日)、藩では領内の外科医師によびかけ医療救援などの措置が行われた。
 また江戸へ早馬を走らせ、第一報を送る。早朝島原藩主とお子様・女中が守山村へ避難開始。島原街道は津波で通行不能になったため、山側を通る道(千々石道【ちぢわみち】)を利用して移動。
 佐賀・大村から救援隊および救援物資が到着。  「追手門前には数ヶ所にかがり火をたかせ、こごえたる人を暖め、餓えたる人には粥を与え、お台所には大釜にてニンジンを煎じさせ、あるいは気付杯をもたせ、これを配散して」「御領内の医師外科のこらず召し寄せられ、怪我人へそれぞれお手当て」
(『島原大変記』)
四月三日(5月23日)、混乱した城下では持ち主がなく散乱しているものを取ったり留守宅に忍び込んで盗みをはたらく者が出る。散らばった死体の片付けは囚人及び村方から集めた役夫が行った。集めた死体は城下の寺に大きな穴を掘り埋める。
 城下の人々が避難するとき、『街道沿いで荷物運びを頼むと法外な料金を取られるのでどうにかして欲しい』と苦情が藩へ寄せられる。家老衆はじめ諸役人が三会村に引っ越すと、城には昼夜交代の番が立ち、また武士達とその家族がいっせいに避難して人気がなくなった城下町の強盗取締が行われた。
四月五日(5月25日)、島原城下から半島北部にかけて強い地震・海鳴り。
四月朔日以後の地図
■四月朔日以後の役所所在地と情報収集・結節地点
四月十日〜 上の原で井戸が自噴し、次第に水が溜まり、大池(現在の白土湖【しらちこ】)をつくったほか、上の原・万町の湧水は絶えず、数万人の用水に足りた。
四月二十八日〜 眉山には「六筋の堅割れ」ができ、急崖の中ほどにある数ヶ所の穴から泥土が噴出し、煮えるような音がしていた。
六月朔日 普賢岳山頂で再噴火。煙は最初よりも軽いが、音は大きく激しい。
六月〜七月中旬 地震の度に眉山が二次崩壊を起こす。冷え固まりかけた溶岩も少しずつ崩れる。
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参考文献 島原大変(製作:国土交通省九州地方整備局 雲仙復興事務所  編集:財団法人砂防フロンティア整備推進機構)