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城下を襲いし強き地震
 藩主の子供らと武士の家族は避難す
城下を襲った激しき地震に、藩主の子供らや武士の家族は朔日の日暮れに島原を出発。夜通し歩いて守山村まで避難した。それを伝え聞いた町人たちは驚き急いで避難準備を始めた。この時市中では「殿様が逃げた」との噂が流れ、混乱を極めた。また、藩では領内の船全てを集め、武士達はそれぞれ旗印を掲げ避難用の船を準備した。強くなっていく地震に対し、役人らは役所にて24時間詰めで危険に対処しようとした。
 武士や町人など城下町の多数の避難者は北目【きため】道の村々へ、島原村の避難者は南目【みなみめ】道の村々へ逃げた。  
 佐賀藩神代【こうじろ】領へ避難した者へは、米だけでなく、みそ、薪などにいたるまで支給が有り。「島原領より神代に参宿致している者三百人その者には檀那様(神代鍋島領主)より御助抱を下され、一人前に米五合味噌薪迄日に渡し下さる」とあり、藩の枠を超えた援助が行われた。
(『大岳地獄物語』より)
活気ありし城下町より人々が消ゆ 二日から四日にかけ、取る物も取り敢えず避難した者たちが再び城下に戻る列と、北目方面に避難する者たちの列で島原街道は混雑した。夜通しで避難する者たちに対し、街道沿いの神代・西郷では人馬と提灯を用意したり、避難民を受け入れる準備が行われた。
 武士の家族や町人たちの避難先である北目道の村々では、燃料である薪や食料が不足。そのため藩では三月六日(4月26日)、藩囲い米を放出し米や薪の配布(薪は天草より救援物資として運ぶ)を行うことを決定。

 三月朔地震の後、城下を訪れた熊本からの見聞者は避難が済んだ城下町の様子を「商店は休業し漁師は舟で逃げる準備で魚も売っていない」と記述した。  
 「右の通り、いったん帰り申し候らえども、追々の鳴動にて町中安心せず。御領中五里七里隔たり候ところへ追々逃げ参り、少々は他所へも参り申し候えども、他国出をお差し止めにて忍々に参り申し候よしござ候。右につき、町中空き家にて留守番一人折り候えて、店の蔀【しとみ】をせき一向に諸商売相止め居り申し候間に、妻子とも末居申し候家もござ候えども、店は同前にて商売はせず候。漁師は小船に家財を積み、家内人数とも乗り組み候て、舟を繋げ逃げ候用心の体にござ候。それゆえ、漁などもせず、嶋原町かねて魚所々にてござ候えども、右の通りにて魚類一向ござなし。」
(『島原一件書状の写』より)
藩が出した警戒避難指令書 三月二日(4月22日)、緊急の対応や避難時の心得などを詳細に書き付けた「奥山吹出(普賢岳噴火)に付御手当内調の事」(警戒避難指令書:三月令)が出されたため、早速各役所から役人が出向いて写し取り、それぞれ役目柄必要な準備を整えた。    この警戒避難指令書は、溶岩流の流下による島原城や城下町の被害を想定して書かれている。溶岩流の想定条件は最も軽い状況から悲惨な状況まで順を追って書かれていた。また、溶岩流の挙動および山水(鉄砲水)の発生を知らせる警報の出し方や、江戸・長崎などとの連絡体制といった、緊急時の情報伝達方法についても詳細に取り決められていた。さらに武士や町人が避難した後の城下警備体制も事前に取り決められていた。
 これは殿様御一家の安全確保を主な目的として作成され、広く一般町人を避難させる趣旨ではなかった。結果として城下まで及ぶ溶岩流の被害はなく、千本木の民家までの被害で済んだため、ここで示された想定条件が現実にはならなかった。
楠平地すべりと僧・学道の話 三月九日子の刻(4月29日夜中0時ころ)、地震を引き金として天狗山前面の楠平が地すべりを起こした。夜が明けてから島原村から口頭で郡奉行所に地すべりの規模が報告された。翌日山奉行が現地を見聞、「斜面上下に二段のずれが見られる」と報告する。    「三月上旬、城下に大きに騒動のことあり。その由来は温泉に一条院という真言の寺あり。覚道という旅僧、数年滞留す。この僧、城下を走りまわり、明日八つ時山潮出て城下を溺す。諸人早く立ち退くべし。我は一条院の使いなりと。これによりて町中大いに驚き騒ぐこと、城内に及ぶ。」
(『島原一件書状の写』)
 「一条院弟子学道と申す者、温泉よりの使いと申し、お城下を徘徊し、異説を申し触れし、諸人迷わせ候よし。右様の異説申す者これあり候ども、村方の者迷い申さず様、かつ、右学道を見当て候わば、召し捕らえ申し出で候様、村方へ相触れ申すべく旨、代官へ申し聞き候こと。」
(『郡奉行所日記 書抜』)
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