和暦日付 |
詳 細 |
関 連 図 等 |
寛政三年 十月八日~ (1792年11月3日~) |
■十月八日(11月3日)より地震が始まり、以後毎日3~4回、地鳴りを伴う。 |
■小浜(おばま)方面では最も強い揺れで震度5~6に達する。 |
■十一月十日(2月10日)、鬢串【びんぐし】(現 小浜町)で番小屋にいた老夫婦が落石に打たれ押しつぶされた。 |
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■寛政四年大震図の一部:崩壊前
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寛政四年 正月十八日~ |
■正月十八日(2月10日)に大きな地震と山鳴りの記録あり。普賢祠前の噴火開始。
役所に出仕した前山奉行の石川仙助が奉行の川鍋次郎左衛門方へ来て「奥山普賢山近辺だと見える山が強く焼けていて、通常の山火事には見えない」と報告。
それを受け郡奉行所では手代二名を現地調査に向かわせる。昼過ぎ、手代二名と杉谷村番人中村利右衛門が戻り、「山頂部にある普賢神社前の窪み2箇所で噴煙が上がっており、その周辺からは泥土が噴き上げられていた。鳥居が埋もれてしまったのかはわからない。祠のあたりは変わりないが、山鳴りが凄く、石などが近くへ噴出していた」と山頂の状況を報告。
(『郡奉行所日記書抜』) |
■正月十九日(2月11日)には噴煙上がる。
郡奉行所の手代および一乗院弟子達が別々に山頂での噴火の様子を確認する。 |
■正月二十日(2月12日)、「普賢山噴火」を報告する書状を江戸へ送り、幕府への一連の災害情報の伝達が始まる。 |
■火山灰は四方に散り、数里四方の草木は雪霜がかぶったようになる。 正月二十一日(2月13日)には湯煙は衰えるが、鳴動は往日の倍である。 |
■湯気が噴出したところは沼のようになり、五・六尺ずつ湧き上がる。 |
■正月二十六日(2月18日)には山頂から上がる噴煙を見ようとして大勢の人が山に登り、さらに見物客相手の物売りなども入ったため、火の不始末による野火があった。そのため見物人や出店店主に対し火の不始末注意のお触れが出た。 |
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■普賢山頂吹出の図(長野市・真田宝物館蔵)
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二月六日~ |
■びわのばち(琵琶の首:現 穴迫谷【あなさこだに】)の谷頭で二月六日(2月27日)午前10時、かなりの積雪の中で噴火。
この状況を三会村から届出を受けた郡奉行所では、代官・山奉行・手代を見分に出し、「雪深きゆえ燃え広がらないが、夜になると岩石は一面火になる」と報告を受ける。
(『郡奉行所日記書抜』)
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■二月八日(2月29日)の夜中以降、溶岩流はゆっくりと流下する。この様子はろぎ山(表記は様々。櫓木山・路木山など)より安全に見学できた。
しかるところ、八日の晩より猛火に相成り、炎かわるがわると噴出すありさま、何丈とも見届け難く、深き谷底を一夜のうちに吹き上げ、山のごとくに相見えそれより次第次第に崩れ下ることおびただし、夕陽に岩間岩間は火焔となって、崩れ下る岩石は車のごとく、数十丈の谷底へ、芝山のうちへこけこみ(転げ込み)、燃え上がる炎は天を焦がし、谷峰とも一面の猛火となり、火の色は朱をそそぎたるごとくにして、おびただし。
(『島原大変記(松崎末吉本)』) |
■穴迫谷の溶岩流は「焼け」「焼け岩」と呼ばれた。 |
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■ 穴迫谷溶岩流の図(長野市・真田宝物館蔵)
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二月二十九日
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閏二月二日
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閏二月下旬
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■二月二十九日
蜂の窪【はちのくぼ】(飯洞岩【ばんどういわ】(半洞岩)の下の窪み)より始まった噴火は1ヶ月程して「びわのばち」からの溶岩と一緒になり穴迫谷を静に流れた。
■閏二月二日~
古焼(鳩の穴の少し上から噴出したような小規模溶岩流)の頭で硫黄の煙が吹き出る(溶岩噴出無し)。
■閏二月三日~
閏二月三日(3月25日)から新焼溶岩はゆっくりと流下し、三月朔日(4月21日)には、流下をほぼ停止(平均流速は30~35m/日)。
■二月二十七日
三会村の礫石原【くれいしばる】で酸味の強い炭酸泉が湧き出す。
(1663年の古焼溶岩噴出の時も同地点から湧出有り。)
■閏二月十八日
蜂の窪から古焼頭にかけての地帯に地割れ。
■閏二月下旬
おしが谷でガス噴出。呼吸困難で小動物や鳥が死ぬ。
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■寛政四年大震図(島原市・本光寺蔵)
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