寛政三年十月八日〜閏二月下旬 寛政四年四月二日〜 まとめ ホーム
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寛政四年
三月朔(さく)日〜
三月朔日(4月21日)申刻(19時頃)より地震が次第に強くなり、翌日も終日地震が続く。山鳴りは大砲のよう。眉山では岩石などの崩落激しく、煙で山が隠れるほど。最も強い地震の震度は島原で震度5〜6、守山で4〜5と推定。
眉山(天狗山)から巨大な岩石が土煙をあげて転げ落ち、木々が次々となぎ倒された。
震度5〜6の地震が8回程度繰り返し起きた。
今村集落(島原大変で埋没)で地割れが激しい。
安徳村南名で地割れがあった他、城内などで地下水脈に変動あり。
 三月朔日から五日(4月21日〜25日)にかけ大きな地震あり。特に朔日の夜から二日の朝6時ごろまで激しく、地震と同時に山鳴り頻繁に有り。城下はもちろん、半島北部の守山村や古部【こべ】村でも強い地震あり。又、朔日は昼より激しい雷雨となり、鳴動伴った激しい地震のたび険しい眉山頂上より樹木や石砂が大量に崩れ落ち、土煙を上げ、城下ではあちこち石垣が崩れ家の鴨居は外れ、大きな地割れ生じる。
 朔日から二日にかけ強弱含め300回余の地震あり。鐘撞き堂の石垣は崩れ、やぐらが倒れ、城下は地震でめちゃくちゃになり立って歩けないほど。
 三月五日(4月25日)には地震にて眉山が激しく崩れた。この時新焼溶岩に動きなく、びわのばち・蜂の窪は静かであった。
崩壊後
■島原大変大地図の一部 崩壊

島原大変後
■肥後国嶋原津波之絵図(熊本大学永青文庫 蔵)
三月九日 三月九日(4月29日)深夜0時過ぎの強い地震をきかっけとして南北720m東西1080mの楠平が東方面へ滑り落ちた。滑落崖は90mもあるかのように見えた。山裾より滑り始め、2段に分かれて地すべりを起こした模様。
楠大良崩壊
■島原大変大地図(島原図書館松平文庫 蔵)
三月中旬頃 楠平前面(東側)の今村地区の六助がふいごを吹いていたが、温度が上がらないため中をのぞくと割れ目があり、水が逆流しているのが見えた。
四月朔日 四月朔日酉の刻(5月21日20時過ぎ)にM6.4(±0.2)の地震が発生(島原大変肥後迷惑)。これにより眉山(天狗山)が大崩壊し、島原城下町の南側を飲み込んだ。

有明海沿岸に大津波が押し寄せた(半島北部では3波との記録がある)。

津波の水温は平時より高く、守山方面では「温み」程度、島原城下では「あつき」程度。

上の原の者がいた菜種の刈り置きの番屋がそのまま1500〜1600mも海中に押し出されていた。

立ち木を載せたまま山が滑った。

楠平の上、南のほうが割れ、安徳村は過半土石の下になり、中木場村も北の方が同じ被害を受けた。

松島と茸山の間の「小深り」は埋め立てられ、地続きになった。(押し出しのことを「山水」と用いている)。

眉山の東部は約1kmも海岸線が前へ出た。
大変前図
■大変前島原市街之図(金井俊行氏写図,長崎県立長崎図書館蔵)



■上図より復元した町部海岸線
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参考文献 島原大変(製作:国土交通省九州地方整備局 雲仙砂防管理センター  編集:財団法人砂防フロンティア整備推進機構)