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『国営吉野ヶ里歴史公園事務所』は、平成25年 5月16日をもって
『国営海の中道海浜公園事務所 歴史公園課』に変わりました。
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  事業概要  
     
吉野ヶ里遺跡の概要
 
 吉野ヶ里遺跡は、脊振山南麓から佐賀平野に向かって細長く伸びた段丘上にあります。この段丘は、長さ約4.5km、幅約600m、標高およそ7〜20mで、この尾根線上を佐賀県神埼市、吉野ヶ里町の境界線が走っています。
 この遺跡は、昭和61年からの工業団地開発に伴う埋蔵文化財発掘調査の成果などから、弥生時代(※紀元前4世紀から紀元3世紀ごろ)の約700年という長い期間を通して小さいムラが大陸の文化を取り入れ、やがてクニの中心集落へと発展する過程を教えてくれる極めて学術的価値の高い遺跡であることがわかりました。
 なかでも弥生時代後期の環壕集落跡は国内でも最大規模のものであり、中国の史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の様子を彷彿させるもいのとして、全国的に注目を集め、平成3年5月には国の特別史跡に指定されています。
遺跡の変遷  
     
【 前期 】
紀元前4〜紀元前2世紀ごろ
  【 中期 】
紀元前2〜紀元前1世紀ごろ
【 後期 】
紀元前1〜紀元3世紀ごろ



    前半には、丘陵南部に環壕を持った集落が出現します。やがて、丘陵一帯に数棟の住居と貯蔵用の穴と墓地がセットとなったムラが、分散して発生します。
吉野ヶ里がクニへと発展する兆しがみえます。
       ムラが次第に大きな集落へと発展します。
 首長を葬る墳丘墓のほか、この墓を中心に一般の人の墓が列状につくられ、副装品の違いなどから社会的な階層の分化がわかります。
   面積約40ha以上の大環壕集落が成立します。環壕は、さらに政治的・宗教的拠点となる2カ所の内郭(北内郭、南内郭)を持ち、倉庫群などの公共施設が配置され、クニの中心としての集落が形成されます。  

 
 
 
 
         
 
 
  遺跡の保存方法
   
 
【 保存盛土 】
整備に当たっては、遺構面が傷つかないよう、確認された遺構面より30p以上の保存盛土を行っています。

竪穴建物や掘立建物は、遺構面より30p以上盛土した上に柱を建てて復元しています。
環壕は、環壕遺構の底部より50p以上盛土した上に往時の深さ、幅で復元しています。
地下埋没物については、遺構面より30p以上盛土した上に設置しています。
 
 
  復元整備対象時期  
 
 吉野ヶ里遺跡の変遷の中で最も興隆を見せた、弥生時代後期後半(紀元3世紀ごろ)を整備対象時期をし、これまでのの発掘調査をもとに復元整備を行っています。
 
     
 
吉野ヶ里歴史公園の整備計画
 
     
 
吉野ヶ里歴史公園の基本情報
 
     
 
 吉野ヶ里歴史公園整備事業の経緯
 
     
 
 国営海の中道海浜公園事務所の組織
 
     
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