筑後川の治水事業の歴史(明治以前の主な治水事業)

筑後川の治水事業の歴史

明治以前の主な治水事業

筑後川の最初の治水事業は、江戸期最初の筑後柳川城主となった「田中吉政」が行ったものです。当時筑後川は長門石方面に大きく蛇行しており、洪水被害の原因の一つになっていました。田中吉政は現在の瀬の下を掘削して蛇行部をショートカットする工事を行いました。

次に、鍋島藩の「成富茂安」による「千栗堤防」の築造、また同時期の有馬藩による「安武堤防」の築造等が挙げられます。筑後川の下流右岸の千栗堤防は、寛永年間(1624年から1644年)に12年の歳月を要して、千栗から坂口までの約12キロメートル間に天端幅2間(約3.6メートル)で築造されました。

一方、左岸の安武堤防は、千栗堤防とほぼ同程度の規模で築造されましたが、対岸の千栗堤防に強度的に対抗できなかったため、有馬藩は成富兵庫茂安に匹敵する土木技術者「丹羽頼母重次」を招き、河岸防護を目的とした荒籠を築造しました。

当時の堤防は現在のような連続堤ではなく、霞堤(かすみてい)といわれる不連続堤であり、農地への一時的な氾濫を許容する構造になってました。

また、控提(ひかえてい)を作って下流や市街地に氾濫が拡大しないような工夫をしていました。

明治時代以前は左岸側、右岸側で協力するということはなく、筑後川流域の各藩(有馬、黒田、鍋島、立花)が、自領を守るための治水・利水を競い合ったため、かえって洪水被害を倍加させていました。

瀬ノ下新川開削

「筑後川治水誌」によれば、「初め筑後川の形状、久留米城の西南側において屈曲甚しく河水の流通宜しきを得ず出水の際城中屡々浸水の害に遭う。慶長6年(1601年)城主田中吉政命じて、城南の小丘、鷺の森を掘削せしめ、流路を変じ以て疎通を利して兼て水運の便を図らんとす。然れども地盤悪く岩にして巨岩容易に撤すべからず、企図全く其の効を収むる能わざりしも、後有馬氏封を此所に受くるにおよび承応年中石工酒井重右衛門というもの、これを砕破し始めて舟運の便を開くを得たり、是れ即ち現今の本川にして残岩の尚水底に存じたるものは明治20年改修工事の際之を除去して今や全くその跡を止めず」となっており、久留米の長門石を遠回りしていた筑後川を瀬ノ下で結んだ捷水路の歴史のひとこまである。

千栗堤防および安武堤防

千栗堤防は寛永年間(1643年)に佐賀藩成富兵庫茂安によって築造されたもので、完成まで12箇年の歳月を費やしたといわれている。この堤防は高さ4間(約7.2m)、馬踏(天端)2間(約3.6m)、表裏共こう配2割、川表犬走(小段)9間(約16.2m)、川裏3間(約5.4m)、堤敷幅30間(約54m)で、千栗から坂口まで3里(約12km)あり、川表には竹を、川裏には杉を植付けたが、これは竹の根がよく土をからめ、枝葉が繁って水勢を弱め、杉は水防用材とするためであった。

また、堤防は二重にしてその間は100間(約180m )もあり、これを洪水の遊水池とし、水勢を弱めて本堤の安全をはかる当時としては、きわめて巧妙な設計となっている。

安武堤防は、寛永年間(1626〜1641年)に久留米藩が三瀦郡安武村地方(現安武町)に延長1里弱(約4km)の間に築いた堤防で、敷幅30間(約54m)、高さ4間(約7.2m)、馬踏3間(約5.4m)の規模となっている。その後、寛保元年(1741年)に山浦から下流住吉におよぶ延長約13町(約1.4km)が補築されている。千栗・安武両堤とも、鍋島・有馬両藩の水防上、重要な堤防であった。

下流の開発と治水

筑後川の久留米より下流、とくに坂口、下田(港)より下流では、河道は乱流し、屈曲が大きく、土砂の堆積、州の形成が顕著に見られていたようである。ここの開発が一方では治水事業の進展によって促進されてきたことは、この地先に多い島・野・新田等の地名によっても想像できる。道海島・浮島・大野島等があるが、幕政期を通じて最大の河港だった城島の名は特に有名である。

道海島・・・いま筑後川の右岸にあるがその行政所属は福岡県大川市であり、この開発史について「文禄年間(1592〜1595年)、三潴郡中古賀村(現大川市)の人、緒方将監という者、筑後川の左岸、斥歯の地を開き、数年にして7町余の田を得、之を浮島(現右岸城島町)と名つく。後、慶長15年(1610年)村民を率い、肥前人と争斗して、対岸、芦・萩の地を開拓し、更に50余町の耕地を作り中古賀村民を移して一村落をなせり」とあり、その現況(大正11年)は「東西8町7合(948m)、南北8町3合(約904m)、周囲29町31間(約3,719m)、耕地反別69町4反(約688,268m2)、人口660人」に達している。また、「下流の浮島・道海島は、川中の三角洲にあり、慶長15年筑後の領土となった。その後河道は、完全にこの島の方に寄り、この島は右岸側(佐賀県側)に接近し、現在の地形からすれば、肥前により開発されるのが自然であったろうが、今日まで福岡県に属している」とされている。

浮島・・・この土地はもと川中の潟州であったが、「肥後の勤皇家、菊池後裔、菊池十左衛門、 慶長10年(1605年)、三潴郡に来て江島村(現城島町)に住し、対岸肥前人民の妨害の中でこの洲の開発に従った」といわれる。同15年には江島新田と称し、江島村の所轄にされている。元和3年(1617年)惣右衛門一家※が、この島に移住し、有喜島と改称したが、同7年には民家18戸に達した。寛永年間(1624〜1643年)に、さらに村名を浮島村と改め、福岡県に属している。この島の地形は東西南北各600間(約1,092m)、周囲約1里(約4km)、耕地反別85町8反(約850,000m2)、戸数156戸(大正11年)である。

大野島村・・・『慶長9年(1610年)、三潴郡民津村、三郎左衛門という者、筑後河口に寄洲あることを発見して、之が開拓に従事し、数10歩の地を得たり。その形、釜の蓋に似たるを以って、人呼んで釜蓋島と唱へ、又向野といへり、元和2年(1616年)に至り改めて大野島と称す。当時肥前の居民、又該洲の南端を開墾して大詫間島と称し、漸次その歩を進め、二者相接するに至りて止みたりという』。現大川市。

※惣右衛門一家:名を菊池惣右衛門という。先祖は肥後国菊池郡の人である。慶長10年流落して三潴郡江島村に来り江島石見の宅に寄寓し、名を惣右衛門と改めた。この頃筑後川筋に沙洲があってその領属が明らかでなかったから、惣右衛門はそこに葭草類を植え付けたところが、肥前の人民が妨げて口論となった。惣右衛門はこの島を江島新島といって抗弁し、慶長15年(1610年)に至っていよいよ開拓に従事し、元和3年(1617年)家族等をひきいてここに移住し、地名を有喜島と改め、江島村の民を招いて益々開墾した。寛永19年(1642)年5月27日61才で没した。その後、その子孫世々此の地の庄屋となった。今でも浮島にその子孫が住んでいる。

大詫間村・・・この地の開発について、開発史によれば、「文禄の頃、北部に筑後の農民が芦を植え、潟地への成長を待ち、40年後の寛永10年(1633年)に至って新田を開いた。肥前の農民も南の島に潟地を埋立てた」と、あるように、河床や潮の関係で、自然に堆積した土砂に乱杭や石土手等を用いる治水方法と、自生、あるいは植栽による芦・萩・水防林等によって、この開発が進められたものと思われる。現在佐賀郡川副町。

大詫間村、大野島村は筑後川河口最大の中州にあるが、両村は、佐賀県と福岡県とに行政区域が区分されている。

明治以前の主な治水事業年表 

治水事業年 主な事業内容
慶長6年 1601年 柳川藩主・田中吉政が瀬ノ下の新川開削。慶長4年完成。
寛永年間

1624年

 ~

1644年

佐賀藩の成富兵庫茂安が千栗堤防を築造。築造に12年間。
寛永3年 1626年 久留米藩が安武堤防を築造。寛永18年完成。

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