丹羽 頼母

丹羽頼母こそ筑後川とその生涯を共にした一大先人で、城下町久留米の発展に寄与した功労者である。頼母の残した業績は今もなお数十万の流域住民がその恩恵に浴している。

丹羽頼母は尾張国丹羽郡に生まれた。のちに有馬藩祖有馬豊氏に仕え、家禄400石の普請奉行となった。 時に元和8年(1622年)36才であった。

このころになると藩政もようやく確立し、藩内の治水・利水事業が積極的に推進された。これらは主として頼母の手によるもので、95才で没するまで半世紀にわたって藩内に残した業績は多方面におよんでいる。

慶安元年(1648年)、三潴郡中島村に荒籠を造築したのをはじめとして、江島村・草場村・下田村にも荒籠を建設した。

この荒籠は水制護岸を目的としたもので、流速緩漫な下流の水深維持と流路の固定のため効を奏した。筑後川の水運が特に重要視された当時として、この流路の固定、水深の維持をめざした低水工事に主力が注がれたことは意義があった。草場村の荒籠は規模が大きく堅固であり、頼母荒籠と称されたがこれらの荒籠は明治22年(1889年)の第一期改修工事で撤去され現在見ることはできない。

荒籠は最初下流部に築造されたが続いて中流部へ移り、久留米城は護岸、水制、築堤によって堅固な城となった。頼母の築堤工事は現在見るような連続堤ではなく、霞堤とよばれ幾重にも平行した不連続堤で、堤防の末端は解放していたため、洪水となればその解放部から水がはん濫する状態であった。当時は霞堤を主体とし、必要に応じて局部に囲堤、乗越堤を設け、洪水処理をしていたのである。

寛文年間に頼母によって施工された築堤工事こそ、筑後川中・下流部における治水工事のはしりであり、一応の完成期といえる。頼母は治水面だけでなく、利水についても流域農民のため数多くの業績を残している。中・下流部の築堤、護岸工事が進むにつれ、流域の人々は、肥沃な流域沿岸一帯の水田化を訴えた。当時中流一帯は、筑後川を間近に望みながら水利の便に恵まれず、天水を頼みにした小規模の水田耕作がなされていた。この耕地もいよいよ水害、かんばつに見舞われ人々は飢餓にさらされていたため、諸藩は貢租減免の措置をとった程である。そこで、寛文3年(1663年)の凶荒を機に流域住民の新田開発と、それにともなう水利用の論議がようやく活発になってきたのである。

大石・長野堰は、築造時普請奉行であった丹羽頼母の業績の一つに違いないが、この堰を造るために寝食を忘れ、大工事計画の請願と工事施工にあたった五庄屋を忘れてはならない。五庄屋とは生葉郡(現浮羽郡)高田村庄屋山下助左衛門、栗林次兵衛、本松平右衛門、重富平左衛門、猪山作之丞の5人で、彼らは筑後川を生葉郡大石村(現浮羽町)で堰止め、長野村(現吉井町)までの8kmにわたり水路を開削して新田を開発する大計画をたてたのである。

この大計画の請願上訴は、五庄屋の熱意と誠意が実を結び、また時の郡奉行高村権内の援助もあって藩府の許可を得ることに成功した。藩はこれを藩営事業とし、寛文4年(1664年)丹羽頼母に工事の監督を命じた。頼母は郡奉行高村権内、国友彦太夫等を引きつれ工事の指揮にあたった。五庄屋をはじめ生葉・竹野・山本(現浮羽郡)の3郡から女子供にいたるまで競って助勢し、生葉・竹野両郡に70余町歩の新田を開発することができた。

この成功を機に、他村から余水の供給を願い出たため、寛文5年、拡張工事に着手した。頼母は営渠使として工事を司り拡張に成功したが、これによって生葉・竹野・山本3郡にわたり千数百町歩の水田をかんがいすることができ、荒廃の浮羽郡一帯は筑後の穀倉に一変するに至った。

寛文12年(1672年)生葉郡(現浮羽郡)長野村の庄屋田中重栄は、大石堰より5km上流の袋野に堰を設け、同郡山春村(現浮羽町)の山裾に隧道をつくり筑後川の水を送る袋野水道を計画し、藩府に願い出た。頼母は実地調査をし、藩府の許可に努力するとともに、自らも工事に種々の助言を与え、土木技術者としての手腕を発揮した。延宝4年(1676年)に工事が完成し、荒廃の地は開発されて台地170町歩が水田となった。

大石・長野、袋野両堰に先立ち頼母は、支川宝満川に稲吉堰(現小郡市)を天保4年(1647年)に完成させ、宝満川沿岸一帯740町歩を水田化している。この稲吉堰こそ頼母が最初に着手した利水事業の井堰である。この井堰の完成が、後年、大石・長野、袋野堰等の大事業計画の基礎となったものであり、頼母の優秀な土木技術が利水面に発揮され、筑後川中流沿岸の新田開発に一時代を画したのである。

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