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大野川のあらまし 治水 河川環境 川の維持や管理 川づくりの進め方 大野川の治水・環境 大絵図

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清流にもたらされてきた豊かな水の恩恵。
ふる里を潤し、見守り続けてきた母なる大河です。
大野川と鶴崎の町の移り変わり
出典:目で見る大分百年(大分合同新聞社)
まだ鶴崎橋もかかっていません。鶴崎と大在間の貨客輸送は当時は渡し船を利用していました。水量も豊かで、遠く松岡あたりまで屋形船ものぼっていたといわれています。船の着く町並みの中の道路は現在の197号線。
出典:目で見る大分市の100年(郷土出版社)
大野川右岸から見た現在の鶴崎中心部の全景。鶴崎橋は昭和9年、県道として愛媛街道(現在の197号)の整備の際に架けられました。
出典:目で見る大分百年(大分合同新聞社)
木橋時代、そして近代的な鉄筋橋に生まれ変わった鶴崎橋が、197号線をつないでいます。両岸の堤防もきれいに整備され、町の方、右手に見える臨海工業地帯のだんだら模様の煙突が、現在の発展を物語っています。

大野川流域の移り変わり
出典:目で見る大分百年(大分合同新聞社)
◆明治35年ごろの白滝橋
らんかんも橋脚もすべて木造で、橋には砂利が敷かれています。大野川にかかる白滝橋(当時大分郡判田村)の落成式には近郷の判田、戸次村の人たちが押し掛け、橋の完成を祝いました。渡り初めの人々が橋上にいます。
出典:目で見る大分百年(大分合同新聞社)
◆木造船の進水式
大野川から三佐へ通じる大分市小中島川には、明治から大正にかけて幾つかの造船所がありました。木造船が完成、大漁旗がひるがえり、付近の人が集まっています。
出典:目で見る大分百年(大分合同新聞社)
◆犬飼町のドンコ釣り大会
犬飼町で毎年行われる恒例の名物行事。地元はもちろん、近在からの家族連れ客の参加でにぎわっています。写真は昭和6年5月10日の第3回ドンコ釣り大会風景。船釣りの人、岸釣りの人、水の中に入って釣っている人もみられます。
出典:目で見る大分市の100年(郷土出版社)
◆鶴崎橋
大野川に架かる鶴崎橋がようやく完成し、鶴崎と大在とが結ばれました。写真は、大野川で船遊びに興じる人びとです。
出典:目で見る大分市の100年(郷土出版社)
◆海苔ひびの立つ鶴崎海岸
埋め立て直前の海岸。海苔の養殖も盛んな鶴崎でしたが、臨海工業地帯の造成によって、この風景はすでに遠い過去のものとなりました。

昔から悩まされてきた干ばつの被害から流域を救った
昭和井路 ■昭和井路の位置図
出典:目で見る大分市の100年(郷土出版社)
大正15年の大干ばつで、下流域一帯は収穫皆無の状態となり大被害を受けました。これを契機に「昭和井路開削事業」が昭和17年に始まり、昭和32年に全域が通水。下流域1,500haを潤しています。この「昭和井路」により、下流域ははねつるべ等の労苦と干ばつによる被害の心配から開放されました。

昭和井路(大野川18.2キロ付近)

川辺ダム(三重町)

江戸時代、上下流を結ぶ交通の要となっていた大野川の
舟運 ■鶴崎地方藩別地図
出典:鶴崎地方藩別地図(安部光五郎氏提供)
犬飼港跡(犬飼町)
江戸時代、大野川は流域の各藩と瀬戸内海とを結ぶ海の玄関口として、近世まで重要な役割を担ってきました。岡藩は、三佐(大野川河口:現在の大分市)を瀬戸内海への基地とし、この三佐と竹田間の中間基地として、犬飼港を建設。一方、犬飼の対岸、吐合港、細長港には臼杵藩の舟番所が設けられ、上下流の産物が行き交い、舟運とともに地域も大きく発展していきました。しかし、大正6年の鉄道開通を境として帆船は姿を消していきました。

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