加藤清正公の治水

加藤清正公はこんな人

せいしょこさんの愛称で親しまれている加藤清正。
清正は1562年、尾張中村(現名古屋市)で生まれました。秀頼にとりたてられ肥後半領二十五万石の領主としてやってきたのが、若干二十六歳でした。

当時、白川はものすごい暴れ川と言われ何度も熊本城下を襲っていました。この清正公は上流から河口まで川の状態をつぶさに見てまわり様々な工事に取りかかりました。堰を築き、井手を掘るなどあらゆる工夫をして田畑を豊かにしています。また、大津街道など道づくりにも力を注ぎ、今の熊本のいしずえをつくってくれました。

 

 

 

清正公の治水のはなし

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白川の堀替え

 

堰と井出

石刎

清正公白川絵地図」

江戸時代、藩主加藤清正が、白川の水害を防ぐために行った工事や清正公ゆかりの史跡などを写真とイラストマップで紹介。
(画像をクリックすると内容をご覧頂けます。)

 

 

 

 

関係の深いもの

渡鹿堰(とろくぜき)

白川で一番大きな堰です。ふつうは川の流れに直角ですが、この堰は斜めに突き出しています。この堰から一の井手、二の井手、三の井手と分水しながら熊本平野(一〇八三町歩)を灌漑しています。

 

鼻ぐり井手

慶長十三年(一六〇八年)馬場楠堰を築いたせいしょこさんは、井手を掘ります。ここから2キロメートル下流に固い岩盤の山がありました。それを掘り抜いてトンネルを通すことになりましたが、もともと白川は多くのヨナを含んでおり、ヨナがつもって水路がつまることがありました。こんな問題を独特の工夫でのり切ったのが、鼻ぐり井手です。

 

瀬田堰(下井手堰)

ここには、川の流れをさえぎるかのように大きな兜岩とよばれる巨岩が川の中央にありました。阿蘇大明神がけとばしたといういわれのある大きな石です。せいしょこさんはそんな岩をいかして堰を築き大津・菊陽の田畑を潤しました。

 

石刎(いしばね)

川の流れを遅くするためにせいしょこさんは、イシバネを岸からはり出しました。これによって水の勢いがやわらげられ、流れが中央に戻って堤は壊れない事になります。)

 

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