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歴史的構造物

捷水路群(しょうすいろぐん)

捷水路群各所で蛇行していた筑後川は、洪水の度に湾曲部から氾濫。そのため、水がスムーズに流れるようにできるだけ直線的にする捷水路工事が藩政時代から行われていた。昭和に入って完成した坂口、天建寺、小森野、金島を筑後川の4大捷水路と呼んでいる。
(写真は坂口捷水路)

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安武堤防(やすたけていぼう)

安武堤防久留米藩が洪水被害を防ぐため、寛永年間(1626~1641頃)に築いた延長約4kmの堤防。その後寛保元年(1741)に1.4km延長された。対岸の佐賀藩によって千栗堤防が築堤されたため、久留米藩側でも洪水の被害を防ぐためにつくられたもの。

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千栗堤防(ちりくていぼう)

千栗堤防洪水による被害から領地を守るため、寛永年間(1624~1643頃)、佐賀藩士成富兵庫茂安により12年の歳月をかけて築堤された。霞堤など、不連続堤が主流の当時、延長12kmの連続堤、しかも二重の堤防は画期的であった。また、堤防には、洪水の勢いを弱める竹や非常時の資材となる杉を植えるなどのアイデアも満載されていた。

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長門石八幡の碇石(ながといしはちまんのいかりいし)

長門石八幡の碇石山口県長門から運ばれた平家ゆかりの石といわれ、長門石の町名の由来ともなっている。11世紀~12世紀、中国船が使用した碇石で、当時、この地域で中国船による交流があったことが推定される。

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灌水記念碑(かんすいきねんひ)

灌水記念碑明治以後、動力ポンプによって水を汲み上げてかんがいに利用する先駆けとなったことを記念して設置された。

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水天宮(すいてんぐう)

水天宮全国水天宮の総本宮。水に縁のある神社として、水難除けの神として信仰されている。国土交通省(旧建設省)の前身、内務省筑後川改修事務所は大正12年(1923)、この水天宮の裏に設置され、この年から筑後川は国の直轄事業として改修工事が施行されることになった。

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久留米城掘割(くるめじょうほりわり)

久留米城掘割明治維新まで、約250年間筑後地方を治めた有馬氏の居城だった久留米城。城の周囲をめぐる掘割の水は、筑後川から引かれていた。

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沈橋

沈橋普段は渡れても、水かさが増すと水面下に沈んでしまうため、この名で呼ばれる。建設費が安いため以前は各地で見られたが、洪水時に水の流れを阻害し、氾濫の危険性を大きくするため、次第に姿を消している。

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水屋・揚げ舟(みずや・あげふね)

水屋・揚げ舟どちらも、洪水常襲地帯の住民が生み出した知恵。水屋は、敷地内に一段高く土を盛って基礎を作った避難場所で、普段は倉庫として利用された。揚げ舟は洪水の避難時のための舟で、天井や倉庫の軒下などに揚げて保管されたことからそう呼ばれた。

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宮入貝供養碑(みやいりがいくようひ)

宮入貝供養碑筑後川流域の一部で風土病として恐れられていた日本住血吸虫病。その根絶のために中間宿主である宮入貝を駆除する対策が進められた。薬剤の散布をはじめ河川の高水敷整備や農業用水路のコンクリートによる三面張りなど生息環境を改変。昭和58年(1983)を最後に、宮入貝の生息は確認されていない。

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筑後川改修工事記念碑

筑後川改修工事記念碑明治29年(1896)から8か年の継続事業として行われた筑後川の第二期改修工事の竣功を記念して建立。詳しい工事の内容は不明であるが、事業実施中に発生した洪水では、改修工事の進展が被害軽減に効果があったと評価する記録が残っている。

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北野天満宮

北野天満宮天喜2年(1054)の創建。菅原道真公をお祀りした境内には、鮮やかな朱の楼門や樹齢900年の大楠が。数々の伝説がのこるカッパの手が宝物として伝わる。

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稲吉堰(いなよしぜき)

稲吉堰宝満川にある、丹羽頼母により築造された堰。正保4年(1647)に完成し、宝満川沿岸一帯740町歩を水田化した。丹羽頼母が初めて着手した利水事業の井堰で、この完成が、のちの大石堰、袋野堰(夜明ダムの完成で水没)などの大事業計画の基礎となった。

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