筑後川の洪水の歴史

筑後川の洪水の歴史

明治以前の主な洪水

明治以前の洪水として残されている一番古い洪水は、大同元年(806年)で、「太宰府管内で水害と干ばつにより田園が荒廃し、筑後の国1ヵ年田租を免ぜられる」とあります。さらに天正元年(1573年)から明治22年(1889年)至る316年の間に183回の洪水記録があります。

このように平均2年に満たない期間に1回の割合いで洪水があり、享保・宝暦の強訴、天明の暴動など、農民の怒りが爆発したことも数度。それはいつも水害による不作と堤防構築などの不満から起こったもので、いかに筑後川の洪水に悩まされていたかを物語っています。

そもそも筑後川で洪水が起きやすい原因として、筑後川上流地域やその支流の上流地域は、降った雨水が土中にあまり浸透しない地質であることや、上流の河床が急勾配であるのに対して、中下流の勾配が極めて緩く、洪水が筑紫平野に氾濫する傾向にあることが挙げられます。(上流の流速は時速20キロメートルであるのに対して下流は時速4キロメートル強とバランスがとれていません。)

洪水発生年  瀬の下での水位 洪水被害の概要
大同元年 806年 - 太宰府管内、水害とかんばつにより田園荒廃。筑後の国1ヶ年田租を免ぜらる。
至徳3年 1384年 - 大洪水。玖珠郡浸水1ヶ月間。溺死者800余人、田畑の損害甚大。
寛文8年5月 1668年 - 大雨洪水。上5郡堤防筋すべて決壊、被害甚大。
延宝8年7月 1680年 床上2尺余 山汐(山津波)洪水。瀬ノ下町床上2尺余浸水。
元禄15年 1702年 - 霖雨洪水。5月から8月まで洪水32回におよぶ。久留米藩の損耗14万3千石。
享保5年6月 1720年 - 霖雨洪水--生葉郡(耳納山系)山津波、死者61人、損耗10万8千石、家屋流失211戸。又、肥前の損耗14万7千石、家屋の流失116軒。
享保17年5月 1732年 - 大雨洪水。(5月9日) 6月より7月にかけ気候不順、蝗発生、飢饉、餓死藩内1万1千余人。
文政9年6月 1826年 - 大風雨洪水、久留米領内浸水家屋6,338戸、死者321人。
嘉永3年6月 1850年

2丈3尺

(6.97メートル)

大洪水、沿岸田地すべて荒廃、家屋流失、堤防崩壊し、大飢饉を生ず。
慶応2年6月 1866年

2丈5尺5寸

(7.72メートル)

洪水。(6月3日) 、城下浸水。

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