デ・レーケ導流堤

大規模事業の足跡

デ・レーケ導流堤

この箇所の明治36年の改修図
明治36年の改修図面

幕末頃から流域関係村民は、筑後川全川にわたる根本的な改修を要望していたので、政府は明治16年に至り長崎桂技師、蘭人ヨハニス・デ・レーケ(註)を久留米に派遣した。

当初は、低水路工事に重点が置かれ、航路の改良を主眼としたものであった。デ・レーケの設計によるこの導流堤は、現在でも航路の維持の役割を果たしています。延長は、昇開橋から有明海の入り江まで約6kmに及んでいます。

この箇所の航空写真
現在:下流から望む

この箇所の地上写真
新田大橋から上流を望む

註:ヨハニス・デ・レーケについては、明治初期の開国したばかりの時期で、オランダ語があまり理解されていなかったこともあり、従来、ヨハネス・デレーケやヨハネ・イ・デレーケなどの名前が用いられてきた。ここでは、正式名を日本語で表現した。