宮崎のシンボル 母なる川に架かる 橘橋
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初代橘橋

橘橋架橋以前

  宮崎市は当時、大淀川をはさんで北が宮崎町、南が大淀村で、大淀川(加工付近)は川の南方に広い河原があり、川は現在の北岸近くを流れていました。架橋以前、中村町から北岸の上野町へ行くには、まず広い河原の中の道を通って水際に出て、そこにあった渡し舟で大淀川を渡ったようです。しかし、大雨等で運行中止になると生活物資が途絶えるなど架橋は両地区住民の悲願でした。

  「日向随一の大淀川に橋がないのは恥だ」として、初めて架設を唱えたのは明治の先覚者、福島邦成(1822〜1898)です。当時、宮崎県は鹿児島県に併合されていて宮崎支庁があるだけだったため、福島の再三の陳情も黙殺されていました。それでも「私費で造るなら」という条件つきで認められ、福島は私財をなげうって長さ450mの木橋を賃取橋として完成(明治13年4月)。自ら「橘橋」と命名しました。しかし、その年の9月4日には流失し、再架設を県に願い出ました。(9月23日)この時の文書に添えられたのが下に示すスケッチです。

※この賃取橋(木橋)は、明治16年の再置県に際し県に寄贈されました



◆エピソード

  宮崎郡大田村の医師、福島邦成(退庵)が私費2000円を投じた架橋は、大変な社会奉仕であり美談ですが、その割には大きな反響を示す資料が残っていません。
  「退庵は大きな橋(箸)で飯を食い」
との狂歌が巷間に伝わり残ったのは、橋の通行料を取る賃取橋だったからで、架橋に感謝するどころか、揶揄したとさえ言われています。
  架橋に伴う渡船業者、舟運業者等とのあつれき(利益の交錯)もあったと伝えられています。初代橘橋はこのような状況下での妥協点において架橋されたものでしたが、その利便性の向上は渡しの比ではないことが知れ、わずか5ヶ月で流失した橋に対し、住民側からの賃取橋の架設願いが出されたほどです。

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