宮崎のシンボル 母なる川に架かる 橘橋
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五代目橘橋

昭和2年8月14日、県下を暴風雨が襲い、翌15日午前11時、第4代橘橋が流失しました。

○轟然たる音響を発するとともに橋梁が水中に墜つ

              市政30周年記念宮崎市勢要覧(昭和28年)

復旧は知事(古宇田晶)の尽力により熊本工兵隊が出勤、9月17日より仮橋の架設に着工、わずか60日余で完成させました(昭和2年10月)。

県は第4代橘橋の流失に際し、永久橋化を検討。

●第5代橘橋

  昭和5年4月1日着工、昭和7年4月完成。
・全長358.5m、巾16.4m、(車道10.9m、歩道2.7m)の無こう式鉄筋コンクリート橋
・外観、構造とも重厚な造りでした。




第5代 橘橋




◆エピソード

○第5代橘橋の建設は、橋幅の拡大、橋の高さが高くなる、用地無償提供、中村通りとの取付道路を直線に、など問題続出でした。また、宮崎市東部において東方振興会が組織され、橘橋はより東方へ架けた方が南北を結ぶ幹線が2本になってよい、とする主張なども飛び出したりしました。
橘橋との取付けがいびつであった中村町側は、新線架設にともない直線で取付ることとなり、これにより町の最も東側の北詰の方は旅館の真中を道路が通るなど大変な騒ぎとなってしまいました。結局、一丁目だけの特別区画整理を行いました。
  第5代橋の建設に際し県は、橘橋120万円、県庁舎建設80万円を国庫補助と県債での対応で考えていましたが、工費の増大などのため、さらに50万円の県債の発行を余儀なくされ、また、銀行の資金不足が深刻になった時に第5代橘橋開通式を迎え、この時銀行は開通式を利用して突然の臨時休業とし、取り付け騒ぎ防止と資金集めに奔走した、という話が残っています。


○太平洋戦争の末期、本土爆撃において、宮崎市で一番ねらわれたのは赤江の飛行場と橘橋でした。終戦間近の昭和20年7月、米軍の爆撃機が宮崎市に襲来し、橘橋を襲った。爆弾2発が橋に命中し、車道に直径5〜6mもの大穴があく重傷でしたが、中詰め土砂が詰まっていて、その直後でも車が通れる程、びくともしなかったと言われています。
(橘橋の頑強さを物語る話として有名)


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