宮崎のシンボル 母なる川に架かる 橘橋
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四代目橘橋

  第3代橘橋も再び豪雨により流失。再び県により木橋架設となりましたが、旧橋より橋幅の広い本格的木箸として明治21年12月に完成しました。
  明治21年は、国道改修工事が始まった時期で、復旧はこれと同時に行われました。架橋位置は、橘橋北側(上野町側)の取付道路との関係で少し東側に移動(南側はそのまま)し、取付道路も新たに造ることになりました。つまり、現位置に変更して架設されたわけで、変更された取付道路が現在の橘通りです。

◆第4代は約39年間、人々に親しまれましたが、木橋のため流失の危険に常にさらされていました。第4代橋も何度か部分流失があり、そのつど復旧しました。これは宮崎県に木材が豊富だったことにもよりますが、その反面、流失の心配のない、永久化もさけばれていました。


四代目橘橋
四代目橘橋


◆エピソード

明治21年の架設後、部分流失を繰り返しながらもその度に復旧、重責を果たしてきた橘橋でしたが、大正15年の洪水では、かなり大きく流失しました。

○橘橋は5月15日午前11時頃、時の知事古宇田晶が橋上から水害上京を視察した直後、大音響とともに流失して知事の肝を冷やさせた。

                     宮崎日々新聞“道”


○橘橋の流失、宮崎交通の幹線、大淀駅(現宮崎駅)〜宮崎神宮間が寸断され、宮崎交通は赤字転落となった。 
                  宮崎日々新聞“橘橋の思い出”

○第4代橘橋はノーベル賞作家、川端康成氏の宮崎を舞台にした小説「たまゆら」にも宮崎の自然のすばらしさとして描写されています。
「高くない山波みは川上へゆるやかに低くなっていく、その低まりの果てに日が沈みかけていた。橘橋の影が美しく水にうつっていた。橋の向こうは木立であった。川上に遠い高千穂の峰なども、もやにかくれていた。」
「橘橋の欄干に日がともった。つらなる電灯は思いがけないほど長い影を見ずに落として、光のしました描いた。」

  川端康成氏が宮崎県を訪れた際、橘橋の美しさと大淀川の水の豊かさにひかれ、滞在期間を大幅に延ばし、2週間余とどまりました。
  「大淀川は広いし、橘橋はきれいだ。これに夕日があれば宮崎の宝だ」と絶賛しました。
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