第1章 大野川の概要

第1節 流域及び河川の概要

大野川は、その源を宮崎県西臼杵郡祖母山に発し、竹田盆地を貫流し、緒方川、奥岳川等を合わせて中流峡谷部を流下し、大分市戸次において大分平野に出て、さらに判田川等を合わせ、大分市大津留において乙津川を分派し、別府湾に注ぐ、幹川流路延長107㎞,流域面積1,465㎞2の一級河川です。

大野川流域は、大分・熊本・宮崎の3県にまたがり、関係市町村は2市13町4村に及んでいます。流域内の土地利用は、その大半を林野と耕地が占めており、その割合は平成9年時点で約95%となっています。また、平成2年時点の流域内人口は、約20万人です。

図1-1 大野川流域概要図

大野川流域の年間平均降水量は約2,200㎜ですが、その約35%が6月中旬~7月中旬にかけての梅雨期に集中しており、引き続き8月~9月の台風期となり、この4ヶ月間の降水量は年間平均降水量の約65%に達します。また、山間部では年間降水量が4,000㎜を越える年もあり、日本の年間平均降水量の約1,700㎜と比較すると多くなっています。

流域の地形は、上中流部で台地、丘陵、谷底平野が形成され、その中を大野川が穿って流れ、滝、渓谷が多くなっています。また下流部では、河岸段丘と沖積平野が形成されています。

流域の地質は、上中流部に阿蘇熔結凝灰岩が広く分布し、表土は黒色の火山灰で覆われています。また、下流部では、川筋に砂礫・粘土等の沖積層が分布し、右岸山地には変成岩、左岸丘陵地には砂礫層等が分布しています。

上流域から中流域にかけては、火砕流台地を緩急を繰り返しながら流下し、白水の滝や陽目渓谷等の景勝地を形成しながら、竹田盆地に出ています。竹田盆地には本川を中心にほうき状に支川が集まり、盆地の中を貫流しています。この盆地を含む流域一帯は阿蘇熔結凝灰岩の地質等のため、降った雨が一度に流出せず地下水としてためられたうえ湧水となって河川を潤しており平常時の流量を豊かにしています。湧水のうち緒方川流域の竹田湧水群が名水として特に有名です。また、景勝地である原尻の滝周辺は河岸段丘が発達し、緒方平野と称される耕作地が広がっています。本川に緒方川が合流する地点では本川最大の滝、沈堕の滝があり、犬飼付近までは川幅はせまく流れも速くなっています。

下流の戸次付近では、大部分の支川が集まり流水も多くなっています。川幅は広く緩やかに蛇行し、高水敷も形成され、河川特有のオギの群落が多く見られるようになります。流れも緩やかで戸次,高田地区の穀倉地帯や大分市東部の市街地である鶴崎を経て別府湾に注いでいます。また、乙津川が本川から分派し本川の西側を流れ下っており、水辺はヨシの群落が形成され、大部分が感潮区間です。

大野川の上、中流域の人々は、稲葉川、玉来川、緒方川、三重川等の支川にその生活の場を見出し、谷底平野の水田と段丘面上の火山灰質の畑地で生活してきました。このため、"山はへだて、川はむすぶ"の言葉通り大野川を中心に連帯感を強め、自然と独自の文化圏を形成してきています。

この大野川流域には、後期旧石器時代の岩戸遺跡、平安時代後期の菅尾石仏、鎌倉時代後期の犬飼石仏等の仏教文化や、神角寺等の名刹が多くあります。また、岩戸橋、虹澗橋等の数多くの石橋が江戸時代末期から明治時代にかけて築造され、現在もその堅固、優美な姿を残しています。

河川水の利用については、農業用水として約15,000haに及ぶ耕地のかんがいに利用され、また、大正9年に建設された軸丸発電所を始めとする10ヶ所の水力発電所により総最大出力41,830kwの電力の供給が行われ、さらに工業用水として大分臨海工業地帯等で、水道用水として大分市、竹田市等で利用されています。

大野川流域の産業活動は、一次産業が主体であり、上流域は広大な台地,原野,水に恵まれ、農業及び林業が盛んです。

水産業は、アユ,コイ,フナ,ウグイ,ウナギ等を中心とする内水面漁業が主です。
工業は、大野川河口付近一帯に鉄鋼,石油精製・石油化学,火力発電などが進出し、さらに、近年ソフトウエア,バイオ技術等の最先端の生産活動が盛んとなっています。
大野川流域は、阿蘇くじゅう国立公園、祖母傾国定公園、祖母傾県立自然公園、神角寺芹川県立自然公園等の豊かな自然環境に恵まれた河川です。

くじゅう火山群

祖母・傾山系

原尻の滝

虹澗橋(三重町)

第2節 治水と利水の歴史

大野川は、古くから流域の人々に、多大な恩恵をもたらしてきました。しかし、その反面、流域の気象・地形特性により、数多くの水害が発生しました。特に大野川本川と派川乙津川に囲まれた高田地区は輪中を形成し、洪水の常襲地帯でした。江戸時代には、大野川高田地区の堤防の一部を低くした溢流堤を設けることにより、大野川の洪水をあふれさせ一時貯留する“千升マス”、“一斗マス”と呼ばれる空池が築かれ、その周辺には竹林が植えられていました。これは加藤清正によって築かれたと伝えられ、堤防の一部を低くすることにより本川の破堤を防ぐと同時に空池で流勢が弱まり、あふれた水はさらに竹林で減勢されるため、田畑や家屋が浸水しても致命的な被害は防ぐことができたといわれています。

また、輪中地区住民は、屋敷を石垣で高くし、家の周囲を“クネ”と称する防水林でとり囲み、洪水の流勢をやわらげ、家屋の流出を防いでいました。洪水が去ると、大野川が上流から運んできた肥えた土が堆積し、豊かな土壌で農業を営むことができました。このように高田輪中は洪水を受け入れ、川と共存する文化が形成されていました。今も川と共存してきた証しとして、洪水時の「水見(みずみ)」「水じまい」「尻(しり)ごみ」等の言葉や、昭和18年洪水の破堤による水害の状況が伝承されています。
現在は、大野川本川流量の一部を乙津川へ分派する分流堰が乙津川の上流端に設けられ、高田輪中は連続した高い堤防で囲まれ、水害の恐れが少なくなったことと、輪中内の市街化による人口増加や宅地開発により、昔からの輪中文化は薄れつつあります。

石垣の上に建てられた人家や蔵
(大分市高田)

高田輪中の人家と石垣
(大分市高田)

大野川流域の用水開発は、上中流域を広く支配した岡藩により、城原井路を始め緒方井路、音無井路等多くの井路が建設されました。

一方、下流域は、小藩分立で各地域間の意志疎通を欠いたこと、また河岸段丘等の地形特性より、用水開発は著しく遅れその完成は昭和の戦後まで待たねばなりませんでした。

一方、大正15年(1926年)、県下に未曾有の大干ばつが襲った際、大野川下流域一帯の竹中・判田・松岡・明治の四村は収穫皆無の状態となり、さらに大在から坂ノ市にかけてのはねつるべ(井戸から水田に水を汲み上げる仕掛け)地帯の被害も甚大でした。この大干ばつが「昭和井路開削事業」の発火点となり、昭和17年に大野川河水統制事業として犬飼の大分県営発電所の共同事業で昭和井路開削国営事業が起工され、その後大分県営事業に引き継がれ昭和32年6月に全域が通水し、大野川下流域の約1,500haをかんがいしています。

これにより、下流でのはねつるべ等の労苦と、干ばつによる被害は解消されています。

このように、洪水と干ばつのなかで、大野川は人々のくらしと密接に結びついていました。

昭和井路(大野川18/2付近)

川辺ダム(三重町)

図1-2 昭和井路位置図

江戸時代、大野川の舟運は、上流地帯に大部分の領地を持つ岡藩と、中流地帯の三重、野津市などの穀倉地帯を領有する臼杵藩によって開かれました。大野川の最大の特徴は、河口に位置する鶴崎、三佐、家島、乙津などが各藩と瀬戸内海と結ぶ海の玄関口として近世を通じ枢要な役割を担った点です。熊本藩がこの地に着目したのも瀬戸内海と通じる参勤と文物の通路を確保するためでした。

元和9年(1623年)に大野川河口の三佐(大分市)を領有することになった岡藩は、三佐を瀬戸内海への基地とし、さらに竹田、三佐間の中間基地として犬飼港を寛文2年(1662年)に完成させています。

一方、犬飼の対岸吐合港、細長港などには、臼杵藩の舟番所が設けられ、犬飼、吐合の両番所を経由して上流の産物が下流へ、下流の産物が上流へと、当時の舟運が如何に大きな役割を果たしていたかがわかります。その後、大正6年の鉄道の開通を境に大野川に白帆をかかげて上下していた帆船は姿を消していきました。

犬飼港跡(犬飼町)

細川家御座船の図

舟曳きの様子

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