恵利堰

施設名 恵利堰 管理者 三井郡床島堰土地改良区
型式 固定堰 河口からの距離 44km000m
堰長 (m) 176.7 目的 かんがい用水 
魚道 呼び水式
完成年度 昭和40年5月改築

この堰の航空写真

御井郡、御原郡(いずれも現在の三井郡)は筑後川中流域の北岸にある平野で、昔から干ばつになるたび飢に迫まられ、各村はなんとかして筑後川の水を利用できないかと考えあぐんでいた。

上流生葉郡の大石水道が開さくされたことに刺激され、筑後川の水利用の熱望はなお一層高まり、当地区においても水道を開削しようと各村庄屋の間で唱えられたが、開削予定地点である床島付近は川幅が広く、また深く、流れは急であり、それに加えて福岡、久留米両藩の境にあって、工事の困難さ、折衝の複雑さが想像され、率先してこの事業に当る者もなかった。

しかし、新田開墾のために筑後川の水利用を熱心に考えていた郡内の庄屋の中でも、特に少壮気鋭の鏡村庄屋六右衛門は、宝永7年5月(1710年)郡総裁本荘主計同市正父子に水道開削の利益の大きいことを説いた。郡総裁は、大変感激し、その企画に賛同した。そして同年8月28箇村で請願書を作成し郡奉行に提出した。

このときの計画の一部を挙げると・・・

  1. 筑後川の恵利瀬に堰を造り、その一部を舟通しとすること。  
  2. 恵利瀬の堰の北岸より床島方向に溝を掘り導水すること。
  3. 床島に水門を設け、これより取水し、下流30余村の水田をかんがいすること。
  4. 新溝ができた暁には、古田約800ha、新田約700haが恩恵を受けること。

等々であった。

ところが、この計画を耳にした筑前領の村民は、筑後川に堰を設け床島に水門を設ければ、洪水時には、当地は水没するとして徹底的な抗議を行なったため、工事の着手には至らなかった。しかし、六右衛門のたゆまぬ説得のかいあって、水門の位置の変更および溝岸に堤防を築かぬ等を条件に、正徳2年正月、水利開墾の術に長じた普請奉行判草野又六の指揮の下に堰および溝の掘削工事を同時に起工した。そして床島堰は同年4月に完成した。

しかし、恵利堰には舟通しを設けていたのと、漏水がはなはだしかったため、河川水の流入が少なく、又先に請願書を提出した28箇村以外の10箇村からも水配分の願いがあっており、全38箇村に水を充分行き渡らせるには水量が不足するため、正徳4年改築の企画がなされ、堰の舟通しを閉塞し、水量を確保し、舟通しは新溝の起点より約800mのところを掘削して設置した。

こうして出来上った恵利堰は、上口巾約300m、下口巾約220m、長さ約250m、又新溝は巾51mで、さらに新溝の起点より下流1,000mのところ溝の南岸に上口巾130m、下口巾約120m、長さ約65mの水位を安定させるための余水吐の機能をもつ床島堰を設けた。また合流する佐田川には上口巾約80m、下口巾約40m、長さ約70mの佐田堰を設けた。

なお、現在の恵利堰は、昭和28年の大出水により災害を被り、昭和40年3月に復旧したものである。

筑後川50年史の(床島堰渠来歴より)

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