山田堰

施設名 山田堰 管理者 朝倉郡山田堰土地改良区
型式 固定堰 河口からの距離 55km200m
堰長 (m) 309 目的 かんがい用水 
魚道 -
完成年度 昭和56年改築

この堰の航空写真

万治のはじめ(1658年頃)、現在の山田堰のかんがい地区である朝倉町および甘木市の一部においては、すでに地区内を流れる谷川の水を利用し、少面積ではあったが、稲を栽培していた。

その後、年貢の増徴等が続き、年貢を確保するには新田開墾という気運が高まり、また福岡藩においても藩の施策として取り上げ、新田開墾に重要な用水源を筑後川に求めることとし、堀川用水新設の企画がなされた。

寛文2〜3年(1662〜3年)大干ばつが起り、これを契機として堀川用水工事が始められ、翌4年春に完成をみた。  取水口は、今の水神社のある高台が水刎の役目をして導水し易かったと思われ、当該地点に水門を設け、約8,500mの水路によって筑後川の水を引き古毛外9地区の約150haが水田となった。  享保7年(1722年)、度々の洪水等で取水口に土砂が堆積し、用水があまり乗らなくなり、開田された田は干ばつの害を受けるようになり、取水口を現在位置に移し、長さ20m、内法1.5m四方のトンネルを掘り、門扉は1枚で、水の増減に伴い開閉する切貫水門に改築した。

この山田堰で忘れてならないのは、下大庭村(現在の朝倉町)庄屋古賀百工の存在である。取水口を現在位置に変更してからは、新田も増加し、水量も豊富になったが、堀川の恩恵にあずからない長別、余名持、中村地区は畑地が多いため、常に干ばつに悩まされていたので、百工は、この地区のかんがいを目的とする新堀川用水を藩に願い出た。その結果、宝暦9年(1759年)1.5mの水門を3mに拡張し、翌10年に井堰をlmかさ上げし、同14年新堀川用水の全工事が完成した。新堀川用水完成から30年後、百工は山田堰大改修の計画をたてたが、湿害を被るとして末端である長田地区(今の甘木市)の農民が反対した。

しかし、百工の必死の説得のかいあって、藩庁に聞き届けられ、寛政2年(1790年)山田堰大改修の完成をみ、2年後には、因縁の長田湿抜工事が着手され、文政8年(1825年)完成した。

筑後川50年史の(山田井堰堀川300年史より)

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