小丸川の歴史

百済王伝説

西暦660年、唐と新羅の連合軍に敗れた朝鮮半島の百済の王族は、そのころ仲のよかった日本に亡命してきました。その後、何らかの事情によって王族達は筑紫(九州北部)を目指して船2隻に乗って船出しましたが、途中で激しいシケにあい、父の禎嘉王とその一行は「金ケ浜」(日向市)に、子の福智王とその一行は「蚊口浦」(高鍋町)に別れ別れに流れ着きました。父の禎嘉王は山中の神門(美郷町南郷)に、子の福智王は比木(木城町)にそれぞれ住むことになり、平和な日々が続いておりました。やがて、王族らは居場所を知られてしまい、追悼軍との戦いで禎嘉王は戦死してしまいました。

禎嘉王は神門の入口の塚に葬られ、その古墳は今も残っていて、「神門大明神」として祭られています。

師走祭り
(百済王族が年に一度対面ずるお祭り)

禎嘉王がまつられている神門神社
(718年創建といわれ本殿は国の重要文化財)

国指定の史跡 古墳群

小丸川流域の気候は、上流域は山地型気候、下流域は南海型気候区に属し照葉樹林帯が広がっており自然環境はきわめて豊かで、その一部は尾鈴県立自然公園の指定を受けています。この恵まれた環境のもと、下流域の平野部では昔から稲作を中心とする農業が盛んで、小丸川の近くにはこの地域に強い「クニ」があったことを示す「木城古墳群」「川南古墳群」や「持田古墳群」などが残されています。


持田古墳群
(国指定の史跡)

持田古墳群から出土した鏡
(国の重要文化財)

激戦の場 「高城(木城町)」

 

荘園の支配者として力をつけた豪族たちは「武士団」として領地争いを続けましたが、特に力の強かったのが「土持氏」「伊東氏」「島津氏」「大友氏」などで、小丸川流域は覇権を争う場となりました。特に木城町の「高城」周辺では2度大きな戦いがあり、最初の天正6年(1578年)島津氏と大友氏の戦いでは、合わせて10万もの軍勢が激戦を繰り広げました。敗れた大友氏が時の権力者であった豊臣秀吉に助けを求め、天正15年(1587年)今度は豊臣氏と島津氏が同じ高城周辺で戦いました。

宮崎地方の勢力分布図(15世紀中頃)

歴史に残る治水事業

小丸川の河川名が歴史に登場してくるのは今から約300 年前であり、それまでは、戦国時代に大友宗麟と島津義久が雌雄を決した攻防が「高城川の役」(天正六年、1578年頃)と伝えられるように、薩摩藩要衝高城(左岸8KOOO 付近)の名をとって高城川と呼ばれていました。

その後、当地を治めた高鍋藩の高鍋藩拾遺本藩実録(宮崎県史料・第2巻・高鍋藩)によると、貞享二年(1684年)七月二十三日の小丸川井手等修築の記事に「小丸川高城瀬水垣所同藪村三所崩切原村出口崩持田村崩安蔵川除切場同村西川除持田村井手溝初七ヶ所人足壱万弐千百四十人化飯米九十壱石壱斗壱升」とあるように小丸川の名が現れ、当年の洪水による小丸川災害復旧のため12,140 人を動員して修築にあたったことが記録されています。

当時、高鍋藩の城下町には小丸川に通じる小丸小路があり、これが小丸川と接するところは現在も地名としての残る小丸出口( 3K000右岸付近)といわれ、交通の要である船行場として利用されていました。

現在、小丸川本川3K000(右岸)に残る佐久間土手は、江戸より高鍋藩士として招かれた学者佐久間頼母翁の築いた土堤と言われ、築堤は元禄6年より13年に至る約8ヶ年の歳月を要し完成しました。

高城川の戦い(天正6 年、1578 年)
(出典:新納掟高城風雲録による)

佐久間土手
(杉並木が佐久間土手)

小丸川に生き続ける実篤の理想郷

1918(大正7)年、木城町の石河内地区に白樺派の作家武者小路実篤が、自らの文学的テーマ「自然と人間社会の調和」を現実のものにするための理想郷建設を目指し、その心に共鳴した青年達と共に「新しき村」を開きました。実篤達が村を開いた土地は人家も何もない所でした。そうしたところに家を建て水路を開き、農作業をするかたわら文学創作・演劇公演や、当時まだ珍しかったレコードを取り寄せ、ベートーベンなどを聞き、絵を描き、機関誌「新しき村」を出版するなど、最先端の文化活動を行い切磋琢磨していました。実篤自身は8年後の大正末期に村外会員となりましたが、より一層村の支援に力を尽くしました。しかし、昭和の時代になると次第に戦時色が濃くなり、昭和13年の小丸川再開発や埼玉県に「東第一新しき村」が開かれるなどしたため、しだいに村人は減っていきました。「新しき村」は平成16年に村立86周年を迎え、一般財団法人「日向新しき村」として活動を続けています。

木城町・石河内の「新しき村」

木城町石河内展望台 実篤文

近代化の動き

国や県による統一的な開発や治水が考えられるようになり、川には鉄の橋がかけられ、鉄道が通るようになりました。

また、小丸川の急な流れと豊かな水量は発電に適していることから、発電所がいくつも計画されましたが、川原発電所と石河内第二発電所以外は戦争などの影響で、完成は戦後になってしまいました。

木の橋からコンクリートの橋へ

自然の木や石を使った水制工(聖牛)


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