農業用の水を取り入れる為の小さな工事が行われていたぐらいで、川の氾濫を防ぐ為の工事は、ほとんど行われていなかったようです。川幅が狭く、川底が浅く、曲がりくねった川は度々、氾濫を起こしましたが、なすがままの状態でした。
噴火による火山灰は、桜島から遠く離れた大隅半島にまで飛び、肝属川にも厚く降り積もったので、川は浅くなってしまいました。そこに、大正6年、大雨による洪水が起きた為、たちまち川の水は溢れ、大水害となりました。
洪水を安全に流すことが出来るように、川底にたまった火山灰を取り除いたり、堤防を作る工事が始まりました。しかし、水害から生活を守る為に本格的な改修を望む流域の人々の声が高まり、昭和12年から国による工事が始まりました。
泥の海と化した肝付町(旧高山町)
死者・行方不明者259人、水に浸かった家5000戸以上という大水害を受け、このような悲劇が二度と起こらないようにと、昭和12年から始まった国による川の改修がこれをきっかけに本格的に行われることになりました。
整備された堤防(昭和29年・鹿屋市朝日橋付近)
国による改修が始まった途端の大水害で、治水事業の必要性が高まりました。まず始められたのは、曲がった川を真っ直ぐにする事と堤防づくり。ほぼ、今の川の形になったのは、昭和30年代の終わり頃でした。
洪水で家が壊れた鹿屋市内(昭和51年)
洪水を分けて流す「鹿屋分水路」事業は、昭和47年のスタート以来、25年をかけて平成8年に、やっと水を流すことが出来るようになりました。
治水事業を進めるにあたり、最近では、川や動植物が住み易いように工夫をするなど、「環境」に十分に気を配った川づくりが始まっています。