肝属川の歴史

新田開発の歴史

新田開発のイメージ図

鹿児島でも指折りの穀倉地帯として知られる肝属川流域。米、キュウリ、スイカなど豊かな実りを育むこの土地も、数百年前は作物が育ちにくい荒れ地でした。しかし、肝属川の豊富な水を引く事で、荒れ地は水田や畑に生まれ変わりました。新田開発の取り組みは約350年にわたって続けられ、それは大変な苦労の日々でした。


新田開発に立ちふさがった「シラス大地」と「人手不足」

水が地表にたまりにくいシラス台地は、ほとんどが乾いた荒れ地だった。

シラスの水のしみこみ方

シラスが水田として利用しにくいのは、水を通しやすく、地下の深い所にしか水が無いことです。その為、地下水を一度にたくさん汲み上げる技術が発達していなかった江戸時代、流域のシラス台地を新田に変える事はとても難しかったのです。


薩摩半島から大隅半島へたくさんの人が移住

人配による薩摩半島からの移住の様子

もう一つの問題は水を引く為の用水路や堰を作る為の労働力不足でした。そこで新田を開き、藩を豊かにしたいと考えていた薩摩藩は、「人配(にんべ)」と呼ばれる方法を取り入れ、人口が多かった薩摩半島の人達を移住させました。しかし、荒れ地に水を引くための作業は重労働で、移住者の中には、途中で逃げ出す者もいたほどです。


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