肝属川の歴史

舟運の歴史

港に舟が着くイメージ図

肝属川の河口から約14キロメートル離れた鹿屋市川西地区に「船塚」という地名があります。船塚は船着場を表すとされ、昔、そこまで、船が上がってきていたことを物語っています。船といっても、渡し船のような小さなものではありません。東シナ海を渡り、中国大陸からやって来た貿易船のような大型船もあり、肝属川はその昔、色々な物産を積んだ、大きな船が行き交う“川の道”だったのです。


世界とつながっていた肝属川

15世紀頃の海外交易のおもなルート

15世紀頃の海外貿易の主なルート

昭和39年、中流の鹿屋市田崎地区で、2万5千枚もの古銭が発見されました。そのほとんどが中国のお金で、肝属川を利用して海運業を営んでいた商人達が、海外の国と商いをしていた事がうかがえます。彼らが東シナ海や朝鮮半島周辺の海を舞台に活発な活動を繰り広げた13世紀から16世紀にかけての約300年間、肝属川河口の港は、海外に開かれた港として賑わいました。


明や琉球など特産物が、河口の港へ

出土した古銭

出土した古銭

貿易の相手となった明(今の中国)や琉球(今の沖縄)、呂栄(今のフィリピン)などから陶器、織物、銅銭などが輸入されました。いずれも貴重品扱いで、多くの品物が波見や柏原の港にいったん集められた後、大阪や京都へと持ち込まれて行ったのです。


波見や柏原は、貿易港として発展。

漁港としてにぎわう波見港

江戸時代になり、外国との貿易は禁止されます。しかし、波見や柏原の港から活気が無くなることはありませんでした。多くの借金に苦しむ薩摩藩は、幕府に黙って中国大陸や琉球との貿易を地元の商人達に奨励し、莫大な利益を手に入れようとします。一方、御用商人として藩の保護を受けるようになった商人達は、国内での交易にも力を入れ、河口は、鹿児島最大の貿易港として多くの産物が集まることになります。


全国に名を知られた河口の大商人

重氏のお墓の写真

重氏一族の墓

「有明湾の汐は干っても、カネタの金は減らぬ」− 地元の柏原、唐仁の人達にこう噂されるほどの大金持ちとして有名だったのは柏原港で海運業を営んでいた田辺氏。また、波見の港には江戸時代後期「全国長者番付」の江戸、大阪、京都を除く地方の部で2番目にランクされた重氏がおり、河口の港町は、九州を代表する商人達の活動の場となっていました。

※カネタとは田辺家の屋号のこと。


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