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肝属川の歴史

争乱の歴史

勢力を伸ばしてきた島津氏

1535年当時の肝付氏と島津氏の勢力図

1535年当時の肝付氏と島津氏の勢力図
「薩摩藩沿革図」を参考に制作

1192年、鎌倉幕府が誕生し、貴族に代わって武士が国を治めるようになると、大隅半島にも新しい支配者として「地頭」と呼ばれる役人がやってきます。島津氏です。地頭となった島津氏は少しずつ力をつけていき、1330年代以降、半島の支配をめぐって肝付氏との戦いに明け暮れることに。特に16世紀後半の戦いは激しく、1561年の合戦では、川原で多くの人が命を落としました。


地名が伝える争いの歴史(肝付町・旧高山町一帯)

合戦田
高山川と長能寺地区に挟まれた一帯の地名。肝付氏と島津氏との激しい戦いがここで行われたことで、この名前が付けられたと言われます。
染木
町の南部、現在、国見中学校がある一帯をさす。戦いで傷ついた人達の流す血で、この辺りの木が真っ赤に染められたと言います。

戦国時代、島津氏の支配下に。

肝付氏一族の墓

肝付氏一族の墓

肝付氏と島津氏の争いは、1574年、島津氏が勝利。それまで肝付氏が治めていた領地のほとんどを手に入れることになります。流域の新しい支配者となった島津氏は、鹿児島のほぼ全域を支配することで、その後、日本でも指折りの大名となっていったのです。


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