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桜島の歴史

桜島のあらまし

桜島は、九州の南・鹿児島県の薩摩半島、大隅半島に挟まれた鹿児島湾(錦江湾)の中に位置しています。もともとは海に囲まれた島でしたが、現在は大隅半島と陸続きになっています。大きさは東西約12キロメートル、南北約9キロメートル、周囲約52キロメートル、面積77平方キロメートルのだ円形をしており、大隅半島、宮崎への交通路として大きな役割を果たしています。

また、桜島は昭和9年3月に自然公園法に基づいて指定された霧島屋久国立公園の一部となりました。桜島の北側を除き、海域を含むほぼ全島が国立公園の区域に指定され、優れた自然環境や景勝地が保護されています。

人口は約6,400人が生活しており、農業や漁業、豊かな観光資源を活かしたサービス業などが盛んです。

桜島の断面

桜島には、北から南に北岳(標高1,117メートル)、中岳(標高1,060メートル)、南岳(標高1,040メートルm)の三峰が連なっています。桜島を南北で切ってみると、北岳から南岳まで約2キロメートルの高地が続き、そこから30度内外の急斜面で海に落ち込んでいます。これに対し、東西の断面では、標高400~500メートルまでは急傾斜の山腹ですが、後は緩い傾斜の台地となっています。

 

桜島のなりたち

姶良カルデラの誕生

今からおよそ25,000年前、姶良火山(あいらかざん)が想像を絶する巨大な噴火をおこし、火山が吹き飛んでしまい、大きな窪地【現在は鹿児島湾(錦江湾)】ができ、姶良カルデラとなりました。


桜島の誕生

およそ13,000年前、姶良カルデラの南の縁に子供の火山「桜島」が誕生しました。それから幾度となく噴火活動を繰り返しながら成長を続け、今からおよそ6,000年前まで北岳の噴火活動が続きました。


現在の形に

およそ4,000年前、噴火活動を休止した北岳に代わって、南岳が活動を始め、現在の形に成長してゆきました。

噴火災害の歴史

溶岩流の分布図

桜島火山の有史以後の山頂噴火は南岳で起こっており、その度に溶岩流出や火砕流によって大災害となっています。近年1,000年間に起きた代表的な噴火は、文明噴火、安永噴火、大正噴火、昭和噴火の4つです。


文明噴火(文明3~8年、1471~1476年)

文明の噴火は、軽石を激しく吹き出す噴火で、火砕流も発生しました。桜島の北東山腹と南西山腹の2ケ所にできた火口から溶岩が流出しました。噴出した軽石の量は大変に多く、北岳の地形が一変したほどの大噴火でした。

安永噴火(安永8年、1779年)

溶安永噴火絵図

安永の噴火は、噴火の前日から地震が多く発生したり、井戸から熱水が吹き出すなどの前兆現象がありました。その後、まず南岳の南側の山腹から、次いで北東山腹で噴火が始まり、軽石や火砕流を噴出する激しい噴火が始まりました。さらに溶岩の流出も始まりました。 この噴火の犠牲者は153名ですが、その多くが降ってきた軽石の降下や火砕流によって亡くなったものと考えられています。


大正噴火(大正3年、1914年)

大正の噴火は、噴火の数日前から地震が多く発生したり、頂上付近で崩落が起こったり、あるいは海岸で急に温泉が吹き出すなど前兆現象がみられました。1月12日に始まった噴火で溶岩が大量に流れ出し、5つの集落が溶岩流に埋没、3つの集落が火砕流で消失し、噴火前約2万1千人のうち約半数の島民が移住を余儀なくされました。また、大量の溶岩は当時の瀬戸海峡を埋めて大隅半島と桜島を陸続きにしました。 犠牲者58名、負傷者112名、焼失家屋2268戸と記録されています。

鹿児島市城山から見た噴煙(大正3年)
鹿児島県立博物館所蔵

桜島西部を流下中の溶岩流(大正3年)
鹿児島県立博物館所蔵


噴火後の変化と状況写真


昭和噴火

昭和の噴火は、南岳南東の海抜750mの地点から噴火が始まり、溶岩が流出しました。この噴火は5月まで続き、溶岩によって2つの地区が埋没しましたが、大正噴火のような激しい軽石の噴出はありませんでした。

昭和58年12月の噴火

昭和62年火山雷を伴った爆発的噴火噴煙
撮影:京都大学防災研究所附属
火山活動研究センター


爆発に伴う噴石は、地上に落ちても高温状態を保っているため、山火事を引き起こすこともあります。

工事現場にも頻繁に飛来


昭和61年11月25日、古里温泉へ飛来し、2.5mに及ぶ噴石がホテル1階玄関の屋根を突き破り、地下室床へ達する

噴石の飛来