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豊臣秀吉子飼の武将で数々の武勇伝で知られる加藤清正が、佐々成政のあとを受けて肥後北半国の領主として入国したのは1588年(天正16年)のことです。それまでの肥後は長らく多数の国衆が群雄割拠した状態でまとまりが無く、大規模な国づくりがなされていませんでした。特に白川、緑川、菊池川といった大河川が多いのに河川整備は手つかずの状況で、大雨による河川の氾濫が頻発し領民は苦しんでいました。
清正は入国後大がかりな領地整備に着手します。新しく熊本城を築城し、城下町の防御及び洪水被害から守るため、坪井川と白川を切り離すなど大幅な改修を行いました。また坪井川を城下町と他地域を結ぶ舟運航路として整備するとともに、領内の多くの川で利水堰を設けかんがい用水を確保することで水田を大幅に開発しました。このように清正は、優れた武将であっただけでなく、国づくり川づくりにも卓越した見識と実績を残し、1611年(慶長16年)に急逝した後も、後々まで「土木の神様」「せいしょこさん」として民衆から慕われました。
1611年、清正の逝去を受け子の忠広が家督を継ぎ、その後1632年に加藤家に代わり細川家が肥後藩主となってからも清正の川づくりの意志は受け継がれ、瀬田上井手は細川忠利が完成させました。また、赤瀬堰、畑井手、津久礼井手、保木下井手、琵琶首井手などが整備され、かんがいが行われました。
明治維新以降、白川では大きな河川改修は行われていませんでした。大正12年(1923年)の大洪水後、内務省によって石塘堰が改修されました。また、大正14年(1925年)には、坪井川の氾濫を防ぐ目的で、井芹川の付け替えが行われました。
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