熊本城築城に伴う白川、坪井川改修

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1588年(天正16年)、肥後に入国した清正は、もとからあった隈本城(古城)に入り改築しましたが、中世の小規模な城であり敵からの防御が不十分であったため、新たに築城する必要に迫られました。そして清正は、隈本城のあった茶臼山南麓(現在の熊本第一高校付近)から東方へ城の中心を移し、茶臼山一帯を城塞化するとともに、城下町の整備拡張のため白川坪井川の流路改修を計画します。しかし当時の白川は、現在の代継橋から長六橋にかけて大きく北側へ蛇行し、そこへ東から坪井川が合流していました。また熊本城の西側を流れる井芹川は、二本木(現在の熊本駅南側)付近で白川に合流しており、流路が入り乱れており氾濫が起きやすい状況でした。そこでまず、現在の代継橋から長六橋にかけての蛇行部分の河道を締め切り、蛇行の始点から終点を掘りきってつなげ、流路を直線化することで、白川右岸にあらたな土地を広げつつ、城の外堀としての防御機能を持たせました。

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また、白川と切り離された坪井川は、城の内堀として茶臼山の裾を西へ流下させ、下流で井芹川へ合流させました。その井芹川は下流の二本木付近で白川と合流していたものを石塘(背割堤)を築いて分離させ、新たな坪井川として河口の高橋(現在の百貫港)まで一本の川につなげました。井芹川との合流で水勢を増した新しい坪井川は、白川からの分離により阿蘇山からの火山灰土が流下堆積しなくなったことで水深が確保され、城下町の舟運路として大正時代まで重要な役割を果たしました。 清正はこのように、まず川を治めながら川のもつ恵みや機能を巧みに利用することで城下の整備を成し遂げ、現在にまで至る熊本城下の発展の礎を築いたのです。

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